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小室直樹の「痛快!憲法学」を読む 補足

予定説と不安

 「信仰のみ」とは、言うは易く、行うは難い。これこそ、宗教心理学の鉄則である。一心に信じなければならないと、あせればあせるほど、どこからともなく不信の心がわいてくる。(「小室直樹経済ゼミナール」77P)

プロテスタントは「信仰のみで救われる。信仰以外は関係ない」という予定説を信じた。その結果、常に不安を抱くようになった。心を落ち着けるため、「天職」に一心不乱に打ち込み、怠惰を戒めるようになった。その結果、行動的禁欲が生まれた。

GHQは憲法9条自衛権をどう考えたか

 これは第2項を見れば分かるとおり、日本は一切の再軍備をしてはいけない、自衛権を持ってはならない、ということを意図して書かれたものです。ただし、もし第2項がなければ、自衛権を認めたものと解釈するのが普通ではないでしょうか。
 然るに主権国家国防軍自衛権も持たぬということは、ありえません。しかも日本は大国であって、さらに情勢が常に不安定な東北アジアに位置しております。占領下の日本でまず警察予備隊、続いて講和後に自衛隊が発足しましたが、

(註:マッカーサーは)昭和二十六年元旦には「日本国憲法の規定は、たとえどのような理屈をならべようとも、相手側から、しかけてきた攻撃に対する自己防衛の侵し難い権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない……」と声明し(菅原裕「日本国憲法失効論」16P)

マッカーサーも日本の自衛権を認め、再軍備も認めております。これを9条の解釈とするか、9条は事実上、停止されたと考えるか。もっとも、私は日本国憲法は無効だと思いますから、主権回復後は9条も糞もありません。

美濃部達吉は立派だ

 美濃部達吉は枢密院で唯一人、占領憲法に反対した。

美濃部達吉顧問官は「帝国憲法第七三条によって、こんな改正を行うことは、法理上不可能である」と主張して最後まで反対し、遂に唯一人起立をされなかった。(菅原裕「日本国憲法失効論」44P)

これについては、法理上の問題であるが、内容についてもおそらく、帝国憲法を護持しようとの考えだったのではないか。昭和天皇天皇機関説を支持しておられた。私の考えは少し違うが、ある程度は似ている。美濃部達吉は以下のようにも言っている。

天皇は御一身をもって国家の尊厳を象徴したまふのであるから、天皇の尊厳を冒涜することは、すなわち国家の尊厳を冒涜すること(中川八洋「皇統断絶」226P)

戦前は軍部の横暴を糾弾し、戦後は占領軍の横暴を許さない。法の論理を追求し、強者におもねらない。それこそ学者、政治家、ジャーナリストに要求されるものです。東京裁判占領憲法も無効である。

天皇教は何時からあるか

 幕末における尊王思想の浸透は、広く深く、徹底したものがあった。この時代になると、尊王思想によって深く感化されない者は、もはやどこにも存在しないあり様となっていた。草莽(民間)には草莽の尊王思想があり、武士には武士の尊王思想があった。諸侯には諸侯の尊王思想があり、幕府にも幕府の尊王思想があった。……井伊直弼も、思想上では、れっきとした尊王家であり独自の尊王論を持っていた。……佐幕(幕府に味方してこれを助ける主張をもつ)家もやはり勤王家には違いなかった。(「小室直樹経済ゼミナール」135,136P)

佐幕家は幕府が天皇を補佐すべきだと考えたのでした。
 また、江戸時代には庶民も国学を学んでいたから、記紀万葉集をよく知っていました。それに加えて、

天明7(1787)年6月7日……突如として「御千度参り」と称するものが起こり、連日繰り返された。庶民が突然、御所に大量につめかけ、その塀の周りをぐるぐる廻り始めたのである。……18日の前後には一日に七万人を数えた。……三ヶ月以上続き……数十万〜数百万に及ぶ大量の庶民たち……(服部剛「先生、日本のこと教えて」219P)

飢饉の時、庶民が助けを求めた先は天皇だった。

来日したポルトガルの宣教師のルイス・フロイスは、当時(註:戦国時代)、伊勢参宮に向かう人のあまりの多さに驚いていたほどでした。……当時の人口の一割強ほどの数の人々が、仕事を途中でほっぽり出して家の者にも告げずに、にわかに参宮を思い立って着の身着のまま伊勢に向かう……帰ってきても、「御蔭参り」といえば、叱られないという気分が一般にありました。……庶民のほとんどの家には、「天照大神」の掛け軸がかかっていたそうですから、江戸期には全国的に神宮信仰が一般化していたのだと考えられます。(渡邊毅「愛国心の教科書」31,32P)

伊勢神宮はさながらメッカだった。

近松門左衛門が三十三篇もの「天皇劇」の脚本を書いて、人気を博しています。それらはすべて皇室の仁徳を賛美するという内容になっていますが、一方、近松は徳川家を礼賛した作品を一つも書いていません。(渡邊毅「愛国心の教科書」43P)

江戸時代には太平記も人気だった。

幕末に来日したロシア正教会の宣教師・ニコライは、「どんな辺鄙な寒村へ行っても、楠木正成を知らない者に出会ったことはない」といっていました。(渡邊毅「愛国心の教科書」76P)

このような空気があったからこそ、明治以後の庶民に尊皇思想が浸透していたのです。決して明治になってから生まれたものではなかった。ずっと昔からあったものに、江戸時代に国学が加わった。武士のように崎門の学を学んだ人もいたかもしれません。詳細は忘れましたが、百姓から突然、勤王運動に加わった人もいました。そういう人はたくさんいたかもしれません。

日本人のための憲法原論

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