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小室直樹の「痛快!憲法学」を読む 第13章後編

アノミーが日本社会をぶっ壊した

小室直樹が最もよく使う用語がアノミーです。

アノミーとは言うなれば、「社会の病気」です。アノミーが起これば、身体にも心にも異常がなくても、その人間は異常な行動を取るようになる。(266P)

私は「気違い」という言葉は原則、精神病者には使いません。「気違い」とは精神は病気ではないのに異常な人間のことです。その最たる例がアノミー人間です。アノミーは訳すとすれば「無連帯」であると小室直樹は言います。無連帯とは他者との連帯が無いこと、つまり孤独です。そして心が狂って無規範(何をしようとも自分の勝手、善悪という概念が無くなる)になります。アノミーは一人でなる場合もあれば、ある社会全体がアノミーになる場合もあります。後者は特に権威が消えると発生します。これが「社会の病気」という所以です(あるいは社会を最小、つまり自分の周囲だけと考えれば、やはりアノミー=孤独は社会の病気だ)。人間は一人では生きられません。たとえ物資がどれほど充実していようとも、孤独に耐えられないのです。そんな時、人間は寂しさのあまり気が狂い、自殺してしまうでしょう。
 権威が消えることで発生する社会全体のアノミーを「急性アノミー」と言います。また、小室直樹は「あなたも息子に殺される」などの著書において、親子殺し合いもアノミーが原因としていますが、「歴史に観る日本の行く末」では、父親の権威が無い家庭(一見すると何も欠陥は見当たらない)における親子殺し合いを分析しています(また、その父親はマルキストだった)。

権威とは要するに、何が正しくて何が正しくないかを決める存在です。権威とは規範を定めるものです。(267P)

子供にとって権威とは父親です。父親が「弱い者いじめはいけない」と言えば、子供はそれに従って「弱い者いじめはいけない」という規範が与えられます。そして大人になると、西洋では権威は「父なる神」です。もちろん権威は父や神だけではありませんが、西洋では主にその二人です。ヒトラーが独裁者になれたのも、第1次大戦後のドイツに急性アノミーが発生したからだといいます。
 戦後の日本では父も天皇も権威ではなくなってしまい、急性アノミーが発生しました。しかし、もし完全に両者が権威を失っていれば、日本は二度と再生できなかったでしょう。戦後日本の奇蹟の復活は、昭和天皇の健在、父親の健在が最大の理由です。もし皇室が存続しなかったならば、どうなっていたか、想像すら恐ろしくてできません。いや、昭和天皇が退位、処刑、どちらかになっていたとしたら。それだけでも十分、致命傷だったでしょう。
 現在の日本で問題となっていることの多くは、根本的にはアノミーが原因であると小室直樹は言います。そしてアノミーの原因が尊皇思想(帝国憲法)の消滅なのですから、憲法が死んで全てがおかしくなったというのも、あながち間違いではないのです。

第2の明治維新を!

 これが本書最後のサブタイトルです。ここでいう明治維新が果たしてどのような意味かは分かりませんが、仮に「尊皇思想が国民全体に浸透し、強烈な政治運動によって体制が変革され、民主国家日本が誕生する」という意味だとすれば、私の考えと全く同じです。そして、アノミーを解消する方法が他に提示されているわけでもなく、小室直樹先生の超おすすめの本が平泉澄先生の「物語日本史」であること、「奇蹟の今上天皇」「天皇恐るべし」などの著書を読んでみると、紛れもなく小室先生は天皇教徒(呼び方は何でもいいが)なのです。
 しかし、帝国憲法の復活の前段階である、尊皇思想の復活は、容易ではありません。いや不可能にすら思えます。しかし、この本で出てきたとおり、予定説なのです。吉田松陰先生は、皇国は天壌無窮だから、尊皇思想が一度滅びても、やがては復活してくる、だから絶対に諦めてはいけない、と言っています。デモクラシーは人民の戦いによって勝ち取るもの。ならば日本の人民は、尊皇思想を復活させる戦いに勝って、帝国憲法を我らの手に取り戻すしかありません。そのために必要なことは、学問であり、言論です。吉田松陰先生こそが、その理想的人物です。

<シマジ 「もう1度、明治維新をやりなおせ」ということですか。>
まさに君の言うとおりです。……とにかく歩き出すのです。……最後に君に、丸山真男教授の言葉をはなむけに贈りましょう。「民主主義をめざしての日々の努力の中に、はじめて民主主義は見いだされる」民主主義にも憲法にもゴールはない。それを求める努力こそが、本当の民主主義です。そのことを肝に銘じて、「行動的禁欲」でひた走るしかないのです。今さら心配しても始まらない。私たちには失うものは何もない。─みなさんに私が伝えたいことはそれだけです。(271P)

ここで本書は終わっている。「行動的禁欲」はプロテスタント以外では世界史上、尊皇(維新)の志士にだけ見られたと小室先生は別の著書で言っています。つまり、尊皇の志士となって、ただひた向きに、一直線に、尊皇思想復活の戦いをやれ、と言っているようにも思えるのです。失うものは何もない。吉田松陰先生を目指して、「行動的禁欲」でひた走るしかないのです。今の私には、まだ「行動的禁欲」は無理のようですが。やはり人間には師・友が必要なのか。人間は一人では生きられない! 同志よ、団結しよう! 以上でこの企画を終了します(全17回)。書いている途中はうまく要約できたつもりでも、いざ掲載するときに読み返すと駄目に感じられた。この企画、失敗かな。全て読んでくれた人、もしいるなら、感謝します。後2回おまけがあります。

日本人のための憲法原論

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