人権擁護法案マガジン・ブログ版

人権擁護法案マガジンのブログ版です。人権擁護法案反対VIP総司令部まとめサイトはこちら http://zinkenvip.fc2web.com/

昭和天皇の研究(山本七平)

 非常に興味深い内容で、読んでいてしばしば興奮した(特に二・二六事件の章)。著者曰く、山本七平天皇論ではなく、昭和天皇の自己規定の研究である。論述の公正さに好感が持てたし、大部分は同意せざるを得ない内容だった。現在は「裕仁天皇の昭和史」に改題されて出版されている。目次の一部を見ただけでも、興味を持っていただけるのではないかと思う。

  • 一章、天皇の自己規定――あくまでも憲法絶対の立憲君主
  • 二章、天皇の教師たち(1)
  • 五章、「捕虜の長」としての天皇――敗戦、そのときの身の処し方と退位問題
  • 六章、三代目――「守成の明君」の養成
  • 七章、「錦旗革命・昭和維新」の欺瞞
  • 八章、天皇への呪詛――二・二六事件の首謀者・磯部浅一が、後世に残した重い遺産
  • 十章、「憲政の神様」の不敬罪――東条英機は、なぜ尾崎行雄を起訴したのか
  • 十三章、「人間」・「象徴」としての天皇――古来、日本史において果たしてきた天皇家の位置と役割
  • 十四章、天皇の“功罪”――そして「戦争責任」をどう考えるか

 昭和天皇の他に重要な人物として、杉浦重剛白鳥庫吉美濃部達吉津田左右吉、尾崎咢堂、磯部浅一北一輝らが登場する。白鳥庫吉博士の「昭和天皇の歴史教科書 国史」は以前このブログでご紹介した。
 さて、この本の内容を要約することは、ほとんど不可能であるため、以下に興味深い話を抜き書きするに留める。ぜひこの本を読んで、昭和天皇のこと、昭和史のこと、憲法のこと、憲政のこと、国体のことを深く考えてください。

天皇への呪い

 「天皇への呪詛」を読んでいて、以下の言葉が頭に浮かんできた。

人は教えなければ道を知らない。道を知らなければ、禽獣よりも害がある。(山鹿素行「聖教要録・配所残筆」46P)

また、吉田松陰先生は、

正しい学問を興して、道徳を明らかにし、風教を正さなければ、人間は猛獣のごとくになって、何をするか分からぬものだと、痛嘆しました。(平泉澄「物語日本史(下)」127P)

磯部浅一は、まったく、天皇陛下に対してのみならず、果ては天照大神まで呪い、天神地祇に対し奉りて「(これ)ほどのなまけものなら日本の神様ではない。……そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追い払ってしまうのだ」(167P)などと言うが、皇国に生まれたる者ならば禽獣でも思わないだろう。本当に禽獣よりも害がある。「涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」(170P)と本人が言っているように、まさに異端であり悪魔だ。そういう意味では神社に祭ったほうがいいかもしれない(爾々鹿神社、にーにーろく神社と読む、とか)。

立憲君主天皇

 世界史において、制限君主制の下で、この制限を破ろうとするのが君主で、破らせまいとするのが議会であるのが普通であった。すなわち「国王と議会との闘争」である。ところが日本では「憲法停止・御親政」、すなわち天皇独裁を主張する強力な勢力があるのに、君主自身が頑としてこれを拒否し、一心に「制限の枠」をその自己規定で守っている。これは世界史に類例がない不思議な現象……。
(201P)

天皇絶対とは、天皇の意思絶対か、天皇の権力絶対か。前者なら(帝国)憲法絶対、後者なら憲法破壊、となる。どちらが正しいかは自ずから明白だ。

 帝室は政治社外のものなり。いやしくも日本国に居て政治を談じ政治に関する者は、その主義において帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからずとの事は、我が輩の持論にして……。
(236P、福沢諭吉の「帝室論」)

 我が国においては、有史以来、常に万世一系天皇が国民団結の中心に御在(いま)しまし、それに依って始めて国家の統一が保たれているからである。……明治維新の如き国政の根本的な大改革が流血の惨を見ず平和の裡(うち)に断行せられたのも、この国家中心の御在(いま)しますがためであり、近く無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心のむかうべきところを指示したもう聖旨が有ったればこそであることは、さらに疑いをいれないところである。
(311,312P、美濃部達吉博士)

予算の決定は議会が行う

 日華事変(註:支那事変)で近衛は「不拡大方針」を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。……チャーチルは「戦争責任は戦費を支出した者にある」という意味のことを言ったそうだが、卓見であろう。
(140P)

予算案は政府が作成し、議会が審議・決定する。

昭和天皇にとって戦犯は一人もいない

 戦争責任者を連合国に引渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか。
(100P,昭和天皇のお言葉)

昭和天皇語録など他の本も参考に。

占領下の憲法改正

 昭和二十年十月二十日の朝日新聞で、美濃部達吉博士はこう書いている。

 今日の如き急迫した非常事態の下においてそれを実行することは、決して適当の時期でないことを信じ……いわゆる「憲法の民主主義化」を実現するためには、形式的な憲法の条文の改正は必ずしも絶対の必要ではなく、現在の憲法の条文の下においても、議員法、……その他の法令の改正およびその運用により、これを実現することが十分可能であることを信ずるもので、たとえ、結局においてその改正が望ましいとしても、それは他日平静な情勢の回復を待って慎重に考慮せられるべきところで、今日の逼迫せる非常事態の下において、……憲法の改正はこれを避けることを切望してやまないものである。
(308P)

美濃部博士の別の言葉を含む、この問題に関することは別の記事に書いた。

憲政の神様

城内実先生の文章に、尾崎行雄の辞世が出ている。
http://www.m-kiuchi.com/images/pdf/getsuyouH12_9.pdf

大君も聞こし召すらん 命にもかへて けふなす わが言あげを
正成が陣に臨める心もて 我は立つなり演壇の前

神話とは何か

 神代史が普通の歴史物語のように解釈されて、この現世の上に出来た出来事を、比喩的に書き綴ったものと考えられたから、……神々は、無論、普通の人間と解せられたから、……天照大神でさえ、後世の天皇の如き人間と見做されたのである。……何となれば、これを神と見ればそれは思想上の話になって、事実虚空のものになるからと信じられたからである。この見解は今日(註:昭和三年)においても大なる勢力を有している。……しかるに近年になって、ようやく神話は神話であって歴史でないという事が了解せられて来たので、……従来の合理的解釈とされたものが排斥せられるようになってきた……。
(85,86P、白鳥庫吉

 しかしながら、戦後の日本でも長く「合理的解釈」がなされてきた。そろそろ「排斥せられるようになってきた」ならよいが。
 さて、教育における扱いはどうあるべきかというと、日本神話は国史の頭に持ってくるべきである。しかし、これは歴史として教えるのではなく、神話を神話として教えるのである。どのような感じかは白鳥庫吉博士の「昭和天皇の歴史教科書 国史」を読むと分かるが、要するに神話をそのまま載せるのだ。神話は歴史事実ではないが、歴史と直結する物語なのである。

 乃木さんに神話と歴史的事実は別のものであるということを篤と生徒に話したいと思うけれども、了解しておいてもらいたいということを言ったら、乃木さんはまことにもっともだ、神話は神話で歴史事実は歴史事実だ、ということで……。
(87P)

 (註:神話のことを)私が説話と申しまするのは、それは歴史的事件の記録ではありませぬけれども、いたずらに形作られたものではないのでありまして、その説話に表現せられておる所の思想があるのであります。……この思想が実に歴史的事実なのであります。昔の人がこういう思想を持っておったということ、その思想が一つの事実であります。
(267P、津田左右吉博士)

神話に関しては既に別の記事でも書いた。

天皇は神か、そうでないのか?

「……(註:神とは)人はさらにも云わず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐい、海山など、そのほか何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり。……すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、世にすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云うなり。さて人の中の神は、先ずかけましくもかしこき天皇(すめらみこと)は、御世御世みな神に坐(いま)すこと、申すもさらなり。……一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし……」
(21,22P、本居宣長の「古事記伝」からの引用)

 要約すると、普通でないもの、非凡なもの、つまり「○○は神!」と言うのと同じ意味に思える。人間や鳥獣、さらには草木や山海と、動物だけでなく全ての生物、さらに無生物の自然(及び自然現象)、その他あらゆるものが神となりうるという。しかも、悪しきもの奇しきもの、つまり負の方向での「普通ではないもの」も神だというのだ。この定義では、確かに天皇は神であり、一国一里一家の内にも神が何人もいるということになる。どの家も大抵は先祖を祭っているから、その先祖たちも神と言えるかもしれない。とすれば、生きている人間が神であることもあれば、また死んだ人間は誰でも神様になると言える。こうなってくると、天皇は神であるかどうかに、意味はない。「神」よりも「天皇」のほうが言葉としてずっと重いからだ。
 これはあくまで宣長の定義である。もっと明確に神と人間を区別した場合、例えば神とは人にあらざるもので高度な知能を持ったもの、と言える。その場合は天皇は人間なので神ではない。結局、定義によって違ってくるけれども、あまり神かどうかを気にする必要はないと思う。