人権擁護法案マガジン・ブログ版

人権擁護法案マガジンのブログ版です。人権擁護法案反対VIP総司令部まとめサイトはこちら http://zinkenvip.fc2web.com/

吉田松陰の言葉ランキング 20位〜11位

吉田松陰の言葉ランキング 30位〜21位
http://d.hatena.ne.jp/jinkenvip/20070920/1190293093
吉田松陰の言葉ランキング 40位〜31位
http://d.hatena.ne.jp/jinkenvip/20070916/1189952301
の続きです。
順位は目安であって、あまり意味はありません。

20.5位

群夷競ひ来る、国家の大事とは云へども、深憂とするに足らず。深憂とすべきは人心の正しからざるなり。苟も人心だに正しければ、百死以て国を守る。其の間、勝敗利鈍ありといへども、未だ遽(にはか)に国家を失ふに至らず。
<訳文>今日、諸外国が争って来航することは、国家の大問題ではあるが、深く憂えるには足らない。今日、深く憂えねばならぬことは、人々の心が正しくないことである。もし人の心さえ正しかったならば、すべての人々がみな生命を抛(なげうっ)て、それによって国家を守ろうとするのである。されば、勝ち負けや出来・不出来はあったとしても、急に滅亡するには至らぬのである。
(「講孟箚記」より。数え間違えていたので20.5位に。)

20位

徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居り。故に君子は交遊を慎む。
(「士規七則」より)

19位

今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。
(遺書「留魂録」より)

18位

志士は溝壑に在ることを忘れず、勇士は其の元(かうべ)を喪(うしな)ふことを忘れず。……志士とは、志達ありて節操を守る士なり。
<訳文>「志士は溝壑に在ることを忘れず、勇士はその元を喪ふことを忘れず」、志士は道義のためならば、窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟しており、勇士は君国のためならば、いつ首をとられてもよいと思っている。……志士とは、高い理想を持ち、いかなる境遇になろうともその節操を変えない人物のことである。
(「講孟箚記」より)

17位

天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、その身を空乏にし、行その為すところに払乱す。(註:孟子
雪中の松柏いよいよ青々たり。(註:謝枋得か?)
(川口雅昭「吉田松陰一日一言」より)

16位

人、賢愚ありといえども、各々一、二の才能なきはなし。
(この言葉は「福堂策」に出てくると思われる。)

15位

草莽崛起(そうもうくっき)
(NHKの番組では、「身分を問わず、在野の志ある者たちが、新しい時代を築くために立ち上がること」と解説していた。初出不明。)

14位

凡そ皇国に生れては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は萬葉一統にして、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。人君民を養ひて、以て祖業を続ぎたまひ、臣民君に忠して、以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、唯だ吾が国を然りと為す。
(「士規七則」より)

13位

学問の節目を糺し候事が誠に肝要にて……尊皇攘夷の四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても其の長ずる所を取る様にすべし。
(ハインリッヒ・デュモリン「吉田松陰」より「入江杉蔵宛書簡」の言葉。本人に確固たる信念があれば、どのような学問も有益であるということ。)

12位

天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。
皇神(すめかみ)の 誓ひおきたる 国なれば 正しき道の いかで絶ゆべき
道守る 人も時には 埋もれども みちしたえねば あらわれもせめ
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/shouin/doc/kaisetsu_j/no07.html
(ハインリッヒ・デュモリン「吉田松陰」より「堀江克之助宛書簡」の言葉。天壌無窮の神勅があるから日本は不滅であり、必要以上に心配するのは神勅を疑うこと、大罪である、ということ。)

11位

学は人たる所以を学ぶなり。……抑も人の最も重しとする所は、君臣の義なり。国の最も大なりとする所は、華夷の弁なり。今天下いかなる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至り、華夷の弁をあわせて又之を失ふ。然り而して天下の人、まさに安然、計を得たりとなす。神州の地に生まれて、皇室の恩を蒙り、内には君臣の義を失ひ、外には華夷の弁を遺(わす)る。学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安(いづ)くに在りや。……
松下村塾を運営する方針を表した「松下村塾記」より)