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武士道とは何か・中編〜武士道の教え

 教育は武士道を以ってすべきである。
 では武士道とは具体的にどのようなものなのか。それは剣道や柔道のような武道(武術)を指すのではない。士道、大和魂、日本精神などとも呼ばれるものである。
 武士道を一字で表せば、それは「義」である。

士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。(吉田松陰の士規七則)

と云う。そして義から忠孝仁などが出てくる。忠は儒学では真心(誠意)のことだが、日本では主君への忠誠・忠義を云う。孝とは父母への孝行である。仁は万人・万物に対する愛情であり、博愛と云う西洋思想に近い部分もあるが、武士の情けと表現することもできる。

凡そ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫あり、而して君臣父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は忠孝を本と為す。(吉田松陰の士規七則)

 忠孝が最も重要であるのは何故か。まず孝だが、父母はこの身を生んでくれた存在である。自分を育ててくれた人間である。自分を(教育によって)人間にしてくれた存在である。考えてみれば、赤子が大人になるまでに、一体どれだけのお金が使われるのだろう。お金というと、拝金主義みたいに聞こえるが、要するにその金額だけの労働があったのである。汗と血が、生まれるまでだけでなく、生まれた後も注がれている。そもそも、父母なかりせば、自分の存在はゼロであって、少ないとか小さいとかいう問題ではない。父母の御恩は新高山より高く、小笠原海溝よりも深い。このことは人に教わるのでなく、自ら省みなければならない。父母に対して「老いたなあ」と思う時、若かりし時の彼らは何のために一生懸命働いていたのか、思いを致すべきである。親孝行したい時には親は亡しでは困る。
 松陰先生曰く、

身体はすべて父母から授かったものである。その身体を傷つけないことが孝の始まりである。立身出世し、道義を行い、名を後世に残し、もって父母を顕すのが、孝の到達点である。(「日本の名著31 吉田松陰」146P)

ここでは詳述しないが、武士道などによって自殺や殺人を否定することが出来る。切腹は今で言う自殺とは違った。

凡そ、人の子のかしこきもおろかなるも、よきもあしきも、大ていは父母のをしへに依ることなり。(奈良本辰也吉田松陰のすべて」43P)

つまり、

子の賢愚善悪はたいてい父母の教えによる。とくに十歳以下は男女児とも母の教えを受けることが多い。教えるといっても、小児に言語でさとすことはできないから、母の模範で感化させねばならない。その模範となるべきことは三カ条ある。一、先祖を尊ぶこと、二、神明を崇敬すること、三、親類を睦まじくすること、がそれである。(奈良本辰也吉田松陰のすべて」177P)

それから、

英明な君主のもとで忠義を尽す家臣は珍しくない。暗愚な君主に仕えて忠義を尽す人物こそ、真の忠臣である。慈悲深い父のもとで孝行をする子供は珍しくない。頑迷な父に仕えて孝行を尽す人物こそ、真の孝子である。賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。(吉田松陰「講孟箚記(上)」376,377P)

ああ、言葉で言うのは簡単だが、私はこのことをまだよく納得できていない。特に、頑迷な父に仕えるという点である。
 忠は主君への御恩を思い、忠義を尽くすことである。長い武家時代も19世紀に終わり、今や日本人の主君は天皇陛下御一人である。そのため、江戸時代と比較して、どんどん主従関係の実感が薄れてきている。それは陛下があまりにも尊いお方であり、お会いすることなどまず無いからだ。忠は歴史に学ぶ他に、知ることは出来ない。松陰先生は「天朝を恋い慕う志」と言っている(引用元は現代語訳)。ああ、恋ほど強い感情が人間にあろうか。そして、陛下に恋をするほど強い志なのである。恋とは例えであっても、その意味するところは深い。

……学は人たる所以を学ぶなり。……人の最も重しとする所は君臣の義なり。国の最も大なりとする所は華夷の弁なり。……神州の地に生れて皇室の恩を蒙り、内には君臣の義を失ひ、外には華夷の弁を遺(わす)る。学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安(いづ)くに在りや。……(松下村塾記)

日本に生まれて皇室の御恩を知らぬ者は、人間ではないとまで言うのだ。これこそ武士道が宗教=規範である証拠。宗教がなければ人間ではない。そして日本人の宗教は武士道しかないとすれば、確かに皇室の御恩を知らぬ者は人間ではない。
 恩とは単なる貸し借りや損得の問題ではない。神州(日本)に生まれて皇室の恩を受けていない者は一人もいない。我々を守ってくれる日本の国家というものも、人間たる所以である規範・倫理というものも、(日本帝国)憲法も、人権も、全て御歴代の陛下が与えてくださったものである。

楠木正成

道の為にし、義の為にす、豈(あに)名を計らむ、
誓ってこの賊と共に生きず、
嗚呼忠臣楠子の墓、
吾しばらくためらひて行くに忍びず、
云々という詩を作りました。(平泉澄「物語日本史(下)」126P)

 吉田松陰先生が楠公の墓前で作った詩である。楠子(なんし)の子は孔子と同じで、先生というほどの意味であり、楠木正成(くすのき・まさしげ)先生ということだ。
 嗚呼忠臣楠子之墓という碑を立てたのは水戸黄門である。
 楠木正成公は楠公、あるいは子の正行(まさつら)と区別して大楠公と呼ばれる。大は偉大という意味ではなく、父という意味で、正行公は小楠公と呼ばれる。
 「この賊」は言うまでもなく足利高氏楠公が負け、自決した場所は、現在は神戸の湊川(みなとがわ)神社の一角となっています。この神社は元々、楠公の御墓でしたから、現在は御墓、神社、自決場所の3つが揃っています。松陰先生が参拝した時、まだ神社はありませんでした。松陰先生が墓前で落涙したかどうかは忘れましたが、「しばらくためらひて行くに忍びず」は言葉だけでなく、本当だっただろうと思います。
 楠公こそ、私にとっての松陰先生のごとき、当時最大のヒーローだったのです。彼が生真面目人間だったのか、マンガ「山賊王」のような、お調子者っぽい雰囲気だったのかは分かりませんが、いずれにせよ、本心は真の忠臣で、能力・人徳ともに稀代の英傑だったことは疑いようがありません。
 楠木正成公は死の直前、弟と七生滅賊を誓った。そして松陰先生は、遺書(留魂録)の最後に(5つの歌の中の一つ)七生攘夷と記した。これらを総称して七生報国という。松陰先生は仏教を信仰しておらず、七生とは転生ではなく、七代後の人々まで感化するという意味だった。単純計算すれば21世紀末までだ。松陰先生の不滅の魂は、必ずや21世紀の日本に光明をもたらし、今世紀中に日本は完全復活すること間違いない。それは松陰先生が言ったとおり、天照大神の神勅に天壌無窮とある通りなのである。