人権擁護法案マガジン・ブログ版

人権擁護法案マガジンのブログ版です。人権擁護法案反対VIP総司令部まとめサイトはこちら http://zinkenvip.fc2web.com/

吉田松陰「講孟箚記」を読む 第1回

この本は「孟子」の講義録です。上巻は牢屋で、下巻は自宅で書かれました。孟子の解説であるのに、松陰先生の精神がよく分かり、まるで語りかけられているような感じを受けます。私はこれを毎日少しずつ読みました。以前、上巻を読んだ後、下巻を少し読んで挫折しましたが、今回は読んでいてよく理解できました。しかし、孟子を読んだことがないので、中には話が分からないところもあり、本当に理解しようと思えば、孟子と交互に読まねばならないと思いました。私の近所の図書館ウェブサイトでは「講孟剳記」となっており、箚の字が違います。この本を「講孟余話」と呼ぶこともありますが、松陰先生は講孟箚記を「講孟余話」に改めた後、また講孟箚記に戻していますので、近藤啓吾訳本に従い講孟箚記と呼びます。以下、吉田松陰「講孟箚記(上)」より。


道は即ち高し、美し、約なり、近なり。
<訳文>人の人たる道は、高く美しく、また簡約で身近なものである。(13P,14P)


経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おも)ねらぬこと要なり。若し少しにても阿ねる所あれば、道明かならず、学ぶとも益なくして害あり。
<訳文>経書を読むに当って最も重要なる問題は、聖人や賢人に追従しないということである。もし少しでも追従する気持があると、道が明らかでなく、学問しても益がなく、かえって害がある。(19P,21P)


今已に囚奴と成る。復た人界に接し、天日を拝するの望あることなし。講学切(せつ)びして成就する所ありと雖ども、何の功効かあらんと云々。是、所謂利の説なり。仁義の説に至りては然らず。……人と生れて人の道を知らず、……豈恥づべきの至りならずや。……「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」と云ふは是なり。
<訳文>我々は現在、囚人の身であり、再び世に出て太陽を拝するという希望は持っていない。学問を究めあってそれが完成したとしても、何の役に立つであろうか云々。このように考えるのが一般の考えであるが、これは、孟子のいう利の考えである。仁義という考えから見れば、そうではない。……人として生れながら、人の人たる道を知らず、……ということは、大いに恥ずかしいことである。……孔子が「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」といわれたのは、このことである。(29P,32P)
(VIPまとめより)
こう述べた後、松陰先生は世の中の学者や政治家が利の説に従い、仁義の説を採らないことを嘆いている。しかしそれならまだマシであろう。戦後の日本は科挙の弊害を全面的に被り、「学歴の説」に陥ってしまった。偏差値を上げるための勉強のみだ。「名を得んが為と、官を得んが為とに過ぎず」(29P)「名誉を得たい、官位を得たいということに過ぎない」(33P)と同じではあるが、受験という制度のために「利の説」ですらないわけである。
関連
「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、その身を空乏にし、行いその為すところを払乱せしめる」(「孟子」告子上)
松陰先生は天によってまず苦しみを与えられた。


文王の楽しみは台池鳥獣を楽しむに非ず、民の楽しむを楽しむなり。民の楽しみも亦台池鳥獣を楽しむに非ず。乃(すなは)ち文王の楽しむを楽しむなり。君民上下(しょうか)互いに其の楽しみを楽しむ。是を「偕(とも)に楽しむ」と云ふ。
<訳文>周の文王の楽しみは、その御苑のうちの大地や鳥獣を楽しんだのではなく、民衆がそれを作ることを楽しむのを見て楽しんだのである。民衆の楽しみもまた、御苑の大地や鳥獣を楽しんだのではなく、文王の楽しんでおられるのを楽しんだのである。かくして、王は民衆の、民衆は王の楽しみを互いに楽しんだのであるが、これを「偕に楽しむ」というのである。(35,36P)
(VIPまとめより)
君は民が楽しんでいるのを見て楽しみ、民も君が楽しんでいるのを見て楽しむ、これを、ともに楽しむという。ここで皇族とともに楽しむことを考えてみるけれども、ある人は「皇族には自由がなくて可哀想だ」と言う。しかしながら、皇族は決して自分に自由がないことを悲しまず、我ら臣民を見て楽しんでおられるだろう。ならば我らとしては、そんな皇族を勝手に可哀想などと思わず、楽しそうな皇族を見て我らも楽しむのである。これこそともに楽しむという道であって、加えて言えば、皇族がその地位にあることは天照大神がお命じになったことであるから、むしろ光栄に思っておられるはずだ。ご先祖のご意思に逆らおうとする人間はいないのである。


苟も養ひて教へず、教へて養はず、父母の道に於て何とか謂はん。君道も亦然り。
<訳文>もしも養育はするが教訓しなかったり、教訓はするが養育しなかったりしたならば、父母としての道において、何といったらよいか。君主たるものの道もこれと同じである。(40,41P)
(VIPまとめより)
学問のすすめ」でも同じことが言われていたはずだが、違うのは「君道も亦然り」の部分で、福沢諭吉は民は子供ではないという意味のことを言っている。しかし、この違いは政体の違いから生まれたのであって、福沢先生も君と民の関係は否定しないであろう。ただ政府は民の父母ではないのであって、「学問のすすめ」で言われている通りだ。養育(福祉)は政府が、教訓は君主が分担すべきことだと思う。そのためにも教育勅語の復活が待たれる。