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小室直樹の「痛快!憲法学」を読む 第13章中編

日本国憲法はデモクラシーの敵?

 この本では紙幅の関係か占領憲法無効論には触れられていません。また、帝国憲法(尊皇思想)でなければ日本のデモクラシーは成立しない、とも書いてありません。しかし、はっきりと日本国憲法はデモクラシーの敵であるということは言われています。では、どうして「民主憲法」と信じられている日本国憲法がデモクラシーの敵なのか。それはアメリカ人が書いたからです。すると「ほう、つまり占領憲法無効論だな」と思うことでしょう、しかし実はそのことではないのです。アメリカ人にとって、デモクラシーは身近すぎて、有って当然、国家の制度はデモクラシーで当然、デモクラシーでないのは遅れているだけ、おかしなこと、不自然なこと、と思えるのです。そしてGHQは「アメリカそっくりの憲法を作れば、日本はデモクラシー国家になるだろう」と考えました。これが大きな間違いなのです。デモクラシーは「有って当然、国家の制度はデモクラシーで当然、デモクラシーでないのは遅れているだけ、おかしなこと、不自然なこと」などではなく、むしろ「無くて当然、デモクラシーでないのはキリスト教(予定説)を信じていないから、デモクラシーでないのは自然なこと」なのです。だからアメリ憲法をコピーしてきても、日本でデモクラシーが機能するはずがないのです。しかもデモクラシーは本来、勝ち取るものなのです。しかし占領憲法は、GHQが日本人に与えたもの。明治憲法天皇が国民に与えたものだったのに対して、占領憲法はGHQが天皇の位置(自然状態における主権者)にいるのです。日本人は「ありがたや、GHQありがたや」となってしまって、アメリカ流の「自分たちで勝ち取る」デモクラシーになるはずがありません。さらに、

戦後の憲法では、「天皇の前の平等」という考えは取り除かれ、いきなり「平等」だけが与えられた。(265P)

その結果、日本人は平等が機会なのか結果なのかが分からなくなってしまった。なぜ平等なのかも分からない。幕末以来、人々の権利を平等にしてきた原理が、消え去ってしまいました。

デモクラシーにおける平等とは、結局のところ「身分からの平等」に他なりません。法の前には、身分は関係ない。誰もが同じように富を求めることができる。(265P)

自由民と奴隷の違いは、契約が結べるかどうかです。奴隷は所有者の所有物であり、契約を結ぶ自由を持っていません。社会契約は自由民が契約を結んで国家を作ったという考え方だから、国民はみな対等であり、法の下で平等である。平等とはそういう意味であって、結果の平等ではありません。権利、機会が対等なのです。結果の平等とは要するに、私有財産の権利を認めないことであり、全然意味が違います。
そして自由についても間違った解釈がされています。

デモクラシーにおける自由とは、元来、「権力の制限」を意味しました。

宗教・思想の自由、言論の自由、その他いろいろな自由がありますが、全て「国家権力に縛られない」という意味であって、道徳や法律を無視して何をしても構わないということではありません。人殺しの自由、窃盗の自由、街頭でセックスする自由、そんなものはありません。子どもが親の言うことを聞かない自由、これもない。

民主主義とは国家権力との戦いなのだということが忘れられると、自由も平等もたちまちにして変質してしまうのです。(266P)

アメリカがくれた憲法では、「国家権力との戦い」という意識は出てきません。そこにあるのは「お上に従う」意識です。帝国憲法の場合は、倒幕運動というのがあっただけマシでした。憲法発布後は反・藩閥の運動もありました(天皇と国民の間に専制権力者が居てはならないということ)。それでは、次回が最終回です。

日本人のための憲法原論

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