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物語日本史(平泉澄)を読む 第3回

今回でとりあえずおしまい。ぜひ買って読んでください。騙されたと思って読んでほしい本は、これ以外にない。

05 神代(上)

人権擁護法案マガジン特別号(4月1日発行)より再掲載。修正あり。


物語日本史(平泉澄)の本文。以下のサイトを参考にした。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/english/eng01/eng01frame.htm


 神武天皇の国家建設は、今より凡そ二千数十年前の事であったでしょう。然しそれは日本民族が、神武天皇の御指導により、神武天皇を中心として、一致団結し、高い理想に向かって踏み出した時点であって、日本民族それ自体は以前から存在し、殊に神武天皇の御一家、つまり皇室の御先祖は、前々から光輝ある家柄として、徳を積まれていたに相違ありません。それが口伝によって、いくらか区々になっていたのを、古事記の上巻、及び日本書紀の神代巻によって、我々は知る事が出来ます。殊に日本書紀の方には、その違った口伝を、一本にまとめてしまわないで、それぞれを尊重して、「一書に曰く」として掲げてあるので、非常に有り難いのです。
 さてこの神代の口伝、之を世に神話と呼んで、到底信用する事の出来ない不思議な物語とし、之を軽く見る考えがありますが、もしそのように批判するとするならば、外国の古い伝承も、皆同様でしょう。即ち支那では、最初に現れた王は、身体は蛇で、首から上は人であり、その次もまた、蛇身人首であり、其の次は人身牛首であったと伝えています。西洋でも、アダムとイブと、二人とも裸体で現れて、禁断の木の実を食う所から、人間が始まるとしているでしょう。
 神話を、そのままの姿で、今日の知識から批判すれば、どれもどれも荒唐無稽、つまりデタラメで、信用も出来ず、価値も無いように思われるでしょうが、実はその中に、古代の宗教、哲学、歴史、道徳、風俗、習慣が、その影をうつしたいるのであって、その民族の世界観と人生観、その知性と徳性とを、之によってうかがう事が出来る、貴重な資料なのです。
 そこで我が国の伝は、どうなっているか、と云いますと、天地の初め、即ち世界創造の時に、最初に出現せられたのは、
 古事記では、天之御中主神
(以下略)

06 神代(下)

人権擁護法案マガジン第163号(4月11日発行)より再掲載。修正あり。


物語日本史(平泉澄)の本文。以下のサイトを参考にした。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/english/eng01/eng01frame.htm


 さてこの神話の特色として注意すべき事の一つは、日本の島々が、人と同じく、神の生み給うたものとされている点です。つまり我々の先祖は、この国土山河を、我々とは別のものとは見ず、等しく神によって作られたものであって、いわば血が続いているように考え、極めて親しい気持ちで対していたのです。かように山河自然に対し、動植物に対して、あたたかい感情をいだいた事は、日本人の国民性を、美しくやさしく育ててゆく上に、大きな関係があったと思われます。
 今一つの特色は、悲惨とか、冷酷とか、凶悪とか、いうような暗い話が少なくて、大体ほがらかな、愉快な物語が多い事です。前にも述べた事ですが余所の神話では、人間の発生が怪獣から出たとしたり、また罪悪から人が生まれたとしたり、或いは惨殺、姦淫など、猥がましい話が多いのに、我が国には、そのような暗い話は少なく、大国主命と稲羽の白兎にしても、彦火火出見尊と赤鯛にしても、まことに面白く、楽しい話が多いのです。
 そして皇孫瓊瓊杵尊御降臨の際に、天照大神より下し給うた天壌無窮の神勅と三種の神器、更にその御降臨の御様子を伝えた神話に至っては、まことに荘厳であって、光に充ちているものでしょう。「天壌とともに窮無かるべし」とは、瓊瓊杵尊直系の御子孫は、「代々日本の国の統治者として、天皇の御位をお継ぎになり、その輝かしい光栄と、その重い責任とを荷って、いつまでも、いつまでも、永遠にお栄になるのだ」と云う意味であります。即ちそれは、大神の宣言であり、誓約であります。皆さんは、キリスト教のバイブルを知っていますか。バイブルは、訳して聖書と云います。その聖書に、旧約聖書新約聖書(Old Testament,New Testament)とがありましょう。その約( Testament)と云うのは、約束の意味でしょう。つまり神と人との間の約束、それを説いたものが聖書です。我が国では、その誓約が、天壌無窮の神勅として伝わってきたのです。
 神武天皇が国家を建設し、国民統合、上下和楽の基礎を築かれた事は、非常に辛苦艱難を伴ったに違いありません。然も遂にそれを為しとげられたところを見れば、何者にも挫けない強い意志と、人々を心腹させる徳望とが、豊かにお有りになったに違いありません。そう云う意志や徳望の基づくところは、天皇の御先祖、即ち天照大神を初めとする神代の神々に在ったのでありましょう。神話をそのまま歴史的事実とは思われませんが、このように考える時、深い意味があると思われます。

解説

小室直樹博士は「天壌無窮の神勅は予定説である」と言っているが、「大神の宣言であり、誓約であり」「神と人との間の約束」「我が国では、その誓約が、天壌無窮の神勅として伝わってきた」とは、まさしく予定説的である。つまり、小室先生の独創ではなく、平泉澄先生も言っていることであり、あるいは予定説という言葉はなくとも、江戸時代からこのように考えられてきたとも言えよう。特に松陰先生は、「天照の神勅に日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべしと之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、……只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と言っているとおり、神勅を疑うことは(宗教的に)重罪であり、神勅を信じれば皇国は不滅であり(別に戦争に負けないなどとは言っていない)、皇国の不滅、皇統の永続は予定説そのものなのである。とすれば、皇国のために生き、皇国のために死んだ人間は、皇国の歴史に残り、皇国は不滅であるから皇国の歴史も不滅であり、永遠に歴史の中で生き続けることになるのである。事実、我が国の英雄たちは、永遠に我が国の歴史の中で、日本人の魂の中で、生き続けるのである。ここでこの本の序文、「その芸術功業の長く伝わり、名声栄誉の万世に不朽なるは、その精神功業の、子孫後世に理解せられ継承せられるがためであって、……古来、家に庭訓を厳しくし、国に教育を重んずるは、そのためであって、教育の要諦は実にここに存するのであります」に繋がってくる。私は神武天皇吉田松陰を知らない人間を日本人として認めることはない。断じて、ない。しかし、2,3年前までは、私も日本人ではなかったということだ。未だ真実の日本人にはなっていないが。


「平泉博士が当時、嘆きと怒りをこめて語られた言葉を、私(田中卓)は今に忘れ得ない。『和気清麻呂道鏡によつて流罪にされたといふ悲劇を隠しては、命がけの忠義も、その輝きを失ふ。幕府が翼賛政治であるなら、後醍醐天皇建武中興は、いつたい何のために行はれたのか』……」(ウィキペディア平泉澄のページより)
これを読むと、?と思う。いやいや、どうやら戦前には「和気清麻呂道鏡によつて流罪にされたといふ悲劇を隠し」たり、北条の「幕府が翼賛政治である」と言ったり、壬申の乱を隠したりして、「皇国美化史観」が横行していたというわけだ。「美化」までいかずとも、崎門(山崎闇斎の門下)の天皇批判(後白河、後醍醐など)を明治政府は発禁とした。しかし、平泉澄先生はむしろ崎門の人間である。もちろん必要以上の天皇批判はしていない。しかし、必要以上の天皇美化もしていない。歴史教科書としての「物語日本史」は、時に史実を歪めたり、偏った見方もしていると思われるが、歴史教科書ならばそれが当然だ。しかし、歴史研究書として「物語日本史」を見た場合、そこまで極端に偏っているとも思われない。取り上げられたジャンルというか、そういう点では独特で、決して広いものではないが、見方や実証においては、大きな間違いはないと思う。まあ教科書だと割り切って読むべし。