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人にはなぜ教育が必要なのか(小室直樹、色摩力夫)

人権擁護法案マガジン第118号(12月8日発行)を大幅に加筆・修正。


「新戦争論」「国民のための戦争と平和の法」の最強タッグによる対談。色摩力夫は「ソビエト帝国の崩壊」でも小室直樹に協力している。


「人にはなぜ教育が必要なのか」その理由は、人間は禽獣とは異なるからです。「宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし」(吉田松陰)。もちろん禽獣にも教育はあるが、それは獲物のとり方などです。一方、人間には規範がある。言い換えれば宗教がある。天理とは別に人道がある。


 オルテガの言う「大衆人」とは何かというと、単なる「大衆」ではなくて、エリート意識を持たないだけでなく、持つことをいやがり、持っている人を排斥しようという人たちのことを差します。
 裏を返せば、エリートというのは、その社会のために、自分の利益と関係なく、その社会のためにしなければいけない、してあげたい、やらざるを得ないという特別の責務を受諾する人のことであると。つまり「断れれば簡単に断れるのに、ご苦労様に、そんな苦労を進んで引き受けるなんてそんな馬鹿な」というのが大衆人であって、「だからこそやるのだ」というのがエリートです。
 したがって、労働階級の中にもエリートと大衆人がいるわけです。貴族にだってエリートがいるかもしれないが、大部分が大衆人で、みんなバカ息子、バカ娘なんです。だからエリートであるか否かは社会階級とは関係がない、「意識」の問題なんです。意欲の問題です。というのが、オルテガのエリート論なんです。ちなみにオルテガは「エリート」という言葉は使わず、「選ばれた者」という言葉で表現しています。今の言葉で言えば「エリート」という言葉がいちばんピンと来ると思います。
 これもオルテガが言っていることですが、人間の歴史が始まって以来、古今東西どこでも、社会というものは単に大勢の人間の集合ではなく、それには固有の特別な構造があるのだと。それは一握りの選ばれた者と、多数の大衆つまり人並みに安楽に暮らしていきたいという志のない者との二つの要素のダイナミックな統一であると。(164、165ページ)


 徳富蘇峰の「近世日本国民史」を読む人が今、どのくらいいるのでしょうか。今の日本で、国史(日本史)の教科書として断然すぐれているのは平泉澄の「物語日本史」(講談社学術文庫、全三巻)です。大人のためにも、これ以上のテクストは考えられません。(65ページ)


神皇正統記、中朝事実、日本外史大日本史といった書物は、確かに素晴らしい。しかし、古いし難しい。しかも神皇正統記は吉野時代まで、それ以外は江戸時代までしか書かれていない(当然だが)。近世日本国民史は100巻もあり、なかなか手が出せない。とすると、一体何を読めばよいのか。それこそ、平泉澄の「物語日本史」なのである。神皇正統記、中朝事実、日本外史大日本史といった書物の系譜にあると同時に、古事記日本書紀万葉集平家物語太平記というような古典のアンソロジーという趣もある。おそらく、今後100年や200年はこれ以上の国史教科書は存在しないであろう。私の持っている上巻は、79年2月10日第1刷、98年6月22日第31刷と書いてあり、20年間で30回も増刷されたことが分かる。一回に5千部だとすれば、15万部。1万部なら30万部も売れている。本は売れた数より、いかに長く売れ続けるかで価値が決まるから、もう十分に古典の一つに数えていいはずだ。


 ヨーロッパの歴史を見ていくと、ずいぶん「政治的自由」のコンセプトは変わってきていますが、近代以降においての「自由」の意味は「国家権力からの自由」ということなんです。つまり、個人の内奥にはどんな国家権力も、民主主義であろうが独裁主義であろうが、そんなことはいっさい関係なく、無制限に入ってはいけない部分があると、それを「自由」と言ったのです。(124,125ページ)


 アノミーは「父なき社会」を生みます。また、「父なき社会」における権威の不在は、アノミーを生みます。この悪循環によって、「父なき社会」と「アノミー」とは、どちらか一方が存在すれば、両者とも、とめどもなく昂進(エスカレイト)してゆく傾向を有するのです。果ては、無秩序(アナーキー)。
 この悪循環過程をアノミー・スパイラルと言います。(34ページ)


アノミーは無権威、無規範、無連帯ですが、最も分かりやすく言えば、孤独な人間が(家族、友人のみならず権威=神などとの連帯まで失った結果)規範を失い、頭がおかしくなることです。精神病ではないので小室直樹は社会的な病と言っています。規範がないので殺人や強盗が正義になるかもしれないし、父や母が敵になるかもしれない。


 これは有名な(李自成の)話ですが、このことから発見できるのは、受験勉強で学んだことは、本当は上の空で、真に理解もしていなければ、身についてもいないということです。
 それはそうでしょうとも。受験勉強ほど面白くないものはありません。それを、内面と外面から強制されるのです。嫌で嫌で大きらいになるに決まっています。
 そのうえ、受験参考書と答案の書き方まですでに決まっています。これほど個性を埋没させた勉強はありません。そうなると、もう内容なんかどうでもいいということになる。(42、43ページ)