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先哲を仰ぐ(平泉澄)

吉田松陰、橋本景岳、真木和泉守、楠木正成菅原道真山鹿素行山崎闇斎西郷隆盛エドマンド・バークといった人物が次々と紹介され、武士道、大和魂が明らかになっていく。しかし「歴史の回顧と革新の力」とあるように、現状を打破することが大切である。なお、この本は論文や講演をまとめたものであり、最初に平泉澄先生の「物語日本史」全三巻を読んでほしい。そちらを読めば、この本は読まずとも差し支えないくらい。


武道の要は、我に対して立つ相手が、敵か味方かを鑑定し、識別するを、その第一とし、先決とする。(143P)


家の存続は……その家風厳然として存するを以て第一義とする。古人が家業を大切にしたのは、祖先の精神を継承せん事を思ふ為である。(229,230P)


花は桜木、人は武士。潔いことをよしとする。


事しあらばわが大君の大御ため人もかくこそ散るべかりけれ(277P、桜を見て佐久良東雄が詠んだ歌。)


我が子には散れと教へておのれまずあらしに向ふさくら井の里(277P、野矢常方の歌。楠木正成のこと?)


散るもよし芳野の山の山桜花にたぐへし武士(もののふ?)の身は(278P、山田公章の歌。)


「士は義を以て職となし、商売は利を以て職となす、義利の間、士商判る、この故に士の重んずるところは義なり、商売の重んずるところは利なり……」(284P、室鳩巣の言葉。)


利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。貧富によりて少しも心をみださないといふことである。富んで驕らず、貧しうして屈せず、財の有無によつて心が少しも動揺しないのである。……「武士は食はねど高楊枝」といふのは、この心持をいひあらはした諺である。これについては吉田松陰の「講孟剳記」に次のやうに述べてある。「恒産なくして恒心あるは、ただ士のみ能くすと為すと、此一句にて士道を悟るべし、諺にいふ、武士は食はねど高楊枝と、亦この意なり、然れども、是武士の教といふには非ず、武士の有様なり……」(286P)
(VIPまとめより)産という字は財産のことで、恒産とは常に財産があるということだ。「恒産なくして恒心あるは、ただ士のみ」とは、財産がない時も心を乱さないのは武士のみである、という意味になる。それに対し、山鹿素行は産を産業、仕事と解釈し、「小人閑居して不善を為す」という意味にした。財産があっても暇があると不善を為す、と。武士は財産があってもなくても、暇があってもなくても、関係なく善を為すのみ。武士は食はねど高楊枝、一寸も心を乱さないのである。


「恥を知らざる程、恥なるはなし」(290P、吉田松陰の「講孟剳記」)


「節義廉恥を失うて国を維持するの道決してあらず」(310P、西郷隆盛の言葉)


我家の遺法人知るや否や 児孫の為に美田を買はず(374P,西郷隆盛漢詩


……学は人たる所以を学ぶなり。……人の最も重しとする所は君臣の義なり。国の最も大なりとする所は華夷の弁なり。……神州の地に生れて皇室の恩を蒙り、内には君臣の義を失ひ、外には華夷の弁を遺(わす)る。学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安(いづ)くに在りや。……(松下村塾記)


人も我れも道を守りて変らずば、この敷島の国は動かじ(406P、明治天皇の御製)


士とはかかる人物をいふ。腰に剣を佩かずともよい。職業は何であってもよい。真に道義に目覚めて、道によつて国を守らうとする者、しかも義勇の精神により、死して後已むの覚悟ある者、これを士といふのであります。(541P)
これについて吉田松陰先生は、「武士たる所は、国の為めに命を惜しまぬことなり。弓馬・刀槍・銃砲の技芸に非ず。国の為めに命さへ惜しまねば、技芸なしと云へども武士なり」(講孟剳記)


エリートというのは、その社会のために、自分の利益と関係なく、その社会のためにしなければいけない、してあげたい、やらざるを得ないという特別の責務を受諾する人のことであると。つまり「断れれば簡単に断れるのに、ご苦労様に、そんな苦労を進んで引き受けるなんてそんな馬鹿な」というのが大衆人であって、「だからこそやるのだ」というのがエリートです。したがって、労働階級の中にもエリートと大衆人がいるわけです。貴族にだってエリートがいるかもしれないが、大部分が大衆人で、みんなバカ息子、バカ娘なんです。だからエリートであるか否かは社会階級とは関係がない、「意識」の問題なんです。意欲の問題です。というのが、オルテガのエリート論なんです。(小室直樹色摩力夫「人にはなぜ教育が必要なのか」164、165ページ)