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伊福部昭音楽祭の加筆、修正

以下の3つのことを修正、書き加えました。

1、箏の読みは「そう」ではなく「こと」である。

野坂惠子オフィシャルウェブサイト
http://www.matsunomi.net/keiko/20-25/20-25_1.html
 通常、「箏」というと桐の木に13本の絃が張ってある日本の楽器を指します。その13本の絃に「柱(じ)」というものを立て、右手に「爪(つめ)」をはめて音を出します。「おこと」というと、通常は「琴」の字を想像すると思いますが、厳密に言うとここで説明している「こと」は「箏」の字を使用します。「箏」と書いて「こと」と読みます。(中略)
 更に1991年には一気に25本まで増やします。きっかけは、伊福部昭先生の「日本組曲」というピアノの曲を弾くのに、どうしても絃が足りなかったので。それでもどうしても弾きたかったらしく、結果絃を増やしました。そうして「二十五絃箏」が完成します。
 二十五絃箏は、二十絃箏と比べて糸幅が狭くなります。それを弾き易いと感じるか、弾き難いと感じるかは人それぞれのようです。また、使用する絃の太さも二十五絃箏では多種に渡っています。それにより、音がより厚くなっていると思います。

2、交響譚詩についての説明

亡き兄に捧げた交響譚詩が、亡き作曲者・伊福部昭の追悼曲として、オープニングを飾った。オーケストラでは分からなかった、第一譚詩の楽しさの裏の寂しさが感じられた。それは無理に笑おうとしたかのような。そして作曲者はこの曲について、先の見えない時代だったから自分の将来を悲観していた、という意味のことを語った。事実、戦死はしなかったが放射線障害で倒れた。不思議なことに、放射能を浴びながらもゴジラと同じく長生きなさったからよかったが。今、この曲は伊福部さんの追悼であるだけでなく、先が見えない我が国の将来を暗示している。しかし、この曲は単なる悲観ではなく、将来への勇気をくれるかのようだ。


http://ja.wikipedia.org/wiki/交響譚詩
次兄・勲の追悼のための曲で……1943年、日本ビクター主催のレコード化を条件としたコンクールである第2回管弦曲懸賞募集に応募、第一位となる。また、この作品を収録したレコードが文部大臣賞を受賞する。


http://ja.wikipedia.org/wiki/伊福部昭
1942年に兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。翌年、勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。1945年には、帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続け、放射線障害を負うことになった。日本の敗戦と同時に病に倒れ、職を続けられなくなり、そこで音楽を本職とすることを決意し上京した。

3、銀嶺の果てスキーシーン

DVDでは47分あたりからのシーンで、Wikipediaでは主人公と女性となっているが、実際には主人公ではないため、この二人は単純に楽しくスキーをしているだけである。そもそも、三船(が演じた人)は最後まで山小屋の空気に馴染めなかったではないか。