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愛国心の教科書(渡邊毅)

人権擁護法案マガジン第185号(10月9日発行)より再掲載。


二宮翁夜話を現代語訳した渡辺毅さんの著書です。Amazonによると、この方は現役中学教師らしい。以下引用。


愛国心教育」というと、「国を愛せ」ということを教え込むことだ、などと認識している人が世間にはいるようだが、これは親が子供に「親を愛せ」と言っても子供の心は動かないのと同様、本当の愛国心教育にはなり得ない。本当の愛国心教育とは、「日本」という国がどんな理想を持って歴史を歩んできたのか、そしてその国のもとに「日本人」はどのように育まれ、あるいは貢献してきたのか、などを教わることである。(出版社による解説)


アメリカ軍人の言葉
「自分は何回もペリリュー島へ行ったが、日本の若者がダイビングの目的でペリリューへはよく来ているようだ。そういう若者に会うと必ず、この島で日本軍がいかに勇敢に戦ったか話して聞かせることにしているが、誰も熱心に耳を傾けてくれない。これら日本の若者は遊ぶことにしか関心がないと見える英霊を顕彰することを怠ることは一つの犯罪である。……若者が、国に命を捧げた先輩の英霊を敬う精神を失っては、やがて国は亡びるしかないのではなかろうかと、余計なことかも知れないが心配している」(177P)


アメリカの青年たちよ。東洋には、すばらしい国がある。それは日本だ。日本には君たちが想像もつかない立派な青年がいる。ああいう青年がいたら、やがて日本は世界の盟主になるに違いない。奮起しろ!」こういって、終戦後間もなく全米を講演したスプルアンスというアメリカ人がいました。彼は、硫黄島で日本軍と激戦を繰り広げたアメリカ軍司令官でした。(272P)


杉原千畝「……もしここに陛下がいらっしゃったら……陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか、それとも温情をかけられるだろうか。そう考えると、結果ははっきりしていました。私のすべきこそは、陛下がなさったであろうことをすることだけでした」(192P)


「世界の奇跡」といわれるわが国の戦後の驚異的な経済発展を底流で支えたのは、二宮尊徳の道徳思想であると近年力説している人が、北京大学日本文化研究所所長・劉金才(りゅうきんさい)教授です。(69P)(註:国際二宮尊徳思想学会の会長)


明治の時代に来日したドイツ人医師・リヒャルト・ハイゼは……「忠誠心こそほんものの日本人であることの証である。死に至るまで真心を尽くして仕えるという忠誠心こそは、今も昔も、ありとあらゆる美徳の中でもっとも高貴なるものである」……近年アメリカでベストセラーとなった道徳読本「The Book Of Virtues」(ベネット著)の中には、「責任感」「友情」「勇気」などとならんで、「忠誠心」が盛り込まれています。(73P)


小泉八雲は……わが国のことを「神代そのままの国」と呼んでいます。作家のC・W・ニコル氏も、「初めて伊勢神宮を訪れたときも、私はまるで違和感を覚えなかった。むしろなつかしささえ感じ、すっかり気持ちが安らいだものだ」と述懐しています。イギリスの歴史学者・アーノルド・トインビーは、「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根本的な統一性を感得する」といい、フランスの作家・アンドレ・マルローは「あそこに<永遠なるもの>の祖型が、遷宮という仮象をとおして千古なお生きつづけている」といっています。(23P)


来日したポルトガルの宣教師のルイス・フロイスは、当時(註:戦国時代)、伊勢参宮に向かう人のあまりの多さに驚いていたほどでした。……当時の人口の一割強ほどの数の人々が、仕事を途中でほっぽり出して家の者にも告げずに、にわかに参宮を思い立って着の身着のまま伊勢に向かう……帰ってきても、「御蔭参り」といえば、叱られないという気分が一般にありました。……庶民のほとんどの家には、「天照大神」の掛け軸がかかっていたそうですから、江戸期には全国的に神宮信仰が一般化していたのだと考えられます。(31,32P)


近松門左衛門が三十三篇もの「天皇劇」の脚本を書いて、人気を博していますそれらはすべて皇室の仁徳を賛美するという内容になっていますが、一方、近松は徳川家を礼賛した作品を一つも書いていません。(43P)


幕府によって序列化された庶民は、天皇との結びつきを願い、自らの尊厳の根拠と身分解放への原理を天皇に求めたのです。被差別民や職人の由緒書や偽文書には、その起源を天皇に求めるというものが少なくありませんでした。
また、職人や町人の中には、かなり煩雑な手続きをして多額の金品を出してでも朝廷から位階や「和泉守」「伊勢守」などという名誉称号(受領)を授けてもらおうとする者が後を絶たなかったというのは、そのあらわれでしょう。(55P)


アメリカ人のパール・S・ビース博士(エール大学教授)は、この神武天皇の言葉(註:八紘一宇)について、「人類は五千年の歴史と二度の世界大戦の惨禍を経験した結果“一つの世界”を理想とする国連憲章を結んだが、日本の建国者は、二千年も前の建国当初に世界一家の理想を述べている。これは人類文化史上、注目されるべき発言であろう」(81P)


中江兆民は……「畢竟天子様は……一国衆民の頭上に在って……神様も同様なり。……神武天皇以来、皇統連綿として絶えることなく、御世毎に聡明仁慈に渡らせられ……」……板垣退助も、「世に尊王家多しと雖も吾党自由党の如き尊王家はあらざるべし……」……田中正造は……明治天皇を神のごとく尊崇し、「天皇が神聖なのは国民が神聖だからである」といって、国民一人ひとりの神聖性を主張しました。……水平社宣言を起草した西光万吉……「天皇制」を、「日本民族にとって、これこそ尊重すべき民族的形式である」と述べ、天皇のもとでの解放と平等をめざしたのでした。(57,58P)


イギリスの雑誌「評論の評論」(1912年)は、次のような賛辞を贈っています。「五箇条の御誓文を拝するに、ああ、西暦1868年のこの時点において、ここに漲るごとき感情は、ヨーロッパのいかなる帝王の口からも発せられたことはなかったのである!(中略)思うに、世界中の帝王政治家はひとしく明治天皇に学び、そこからインスピレーションを得て、治国のために以って指針とすべきである」(126P)


「(註:明治大帝の)皇后はじつに慈愛と権威とを有する天使である」。イギリス公使マクドナルドが皇太后に拝謁するたびにいったこの言葉……。(258P)


(註:明治憲法制定の)審議が行なわれていたある日、天皇の皇子昭宮様が薨去されるという悲報が伝えられました。……天皇は、「会議は中止するに及ばぬ……」と仰せられました。これを聴いて金子(註:堅太郎)は、「皆は顔を上げることができずに、首を垂れて涙し、陛下の御意中を恐察し、憲法の制定という重大な政務を知りました」と語っています。(128,129P)


イギリスの社会学者・ハーバート・スペンサーが、自分の忠告を無視して、日本は憲法であまりに大きな自由を国民に与えすぎたと批判していたそうです。(134P)


明治政府は、人権の条文を作成するときに、ドイツ人法学者の意見をあえて採用せず、より強い自由を保障する条文を作成しています。……外国人法学者は、議会の同意なしに政治的自由を制限する道を残すべきだとの意見も出していますが、日本の起草者たちはそれも日本の実情に合わないとして退けています。(135,136P)


この石碑(註:嗚呼忠臣楠子之墓)の拓本は売られて、よく売れていたようで橘曙覧はこのことを、「年々に 御墓の文字を すりふやし 写しひろむる 君の真心」と歌に詠んでいます。正成人気は、武士だけでなく庶民の間で流行りますが、正成はその講釈の中で登場する最大のヒーローでした。「太平記読み」の講釈は、数日間にわたって行なわれることがありましたが、いよいよ正成が登場する段になると、「今日より正成出づ」という張り紙が寄席の門口に出され、客がどっと集まって来たといいますから、正成人気は相当なものでした。……「湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝折りふせて 嗚呼といふめり」と幼い子供でも正成の忠節はよく知っているという歌(橘曙覧・作)が詠まれたほどですから、正成の名やその事跡についての知識はかなり広く浸透していたといえるでしょう。(74,75P)


幕末に来日したロシア正教会の宣教師・ニコライは、「どんな辺鄙な寒村へ行っても、楠木正成を知らない者に出会ったことはない」といっていました。(76P)


「世界の刑務所の、どこかに収容されるとしたら、私は日本を選ぶ」とアジア刑政財団の理事長が、作家の萩野アンナ氏に断言されたといいます。そして、「自分に配給されたちり紙を弱い者でも全部自分で使える刑務所は日本の他、ありませんよ」といっていたそうです。(200P)


ところで、意外なことにあの与謝野晶子は、尊皇愛国の女性だったようです。(以下264P)
「おほぎみは 猶も尊し 上方に 育ちし我の 習ひなるかも」「大君の めでたき御代を 教ふれば 幼き臣の わが子等も泣く」(以上)というように、決してサヨクではないのでした。中江兆民福沢諭吉も同様。


ここに引用した言葉だけでは、どのようなことに対して言われているのか、分かりかねると思いますので、ぜひ本を読んでみてください。どの話も感動的で、愛国心の教科書という名に相応しいものになっています。