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聖教要録・配所残筆 山鹿素行、土田健次郎(訳註)

 2001年に講談社学術文庫で出たが、ネットで探したところ、既に絶版のようである。珍しく山鹿素行の本の現代語訳が出たのに、残念だ。これが「中朝事実・武教小学」だったら、もっと売れたかもしれないし、私は欣喜雀躍して購入しただろう。この本は例に漏れず図書館で済ませた。

山鹿素行に学ぼうとする者は、武教小学と、中朝事実とを読まれるがよい。(平泉澄「物語日本史(下)」78P)

 聖教要録は儒学における古学の提唱で、幕府が推奨する朱子学ではなく、孔子やそれ以前の聖人の学問に還れ、という主張だった。もう一つの配所残筆は、自伝のような文章である。配所とは流刑地のことで、聖教要録を出版したために赤穂藩へ流されたのだった。そのためこの二冊はセットといっていい。
 聖教要録は書き下し文、白文、現代語訳、語釈の順で並んでおり、配所残筆はこれに白文を抜かした3つで構成されている。そのため、現代語訳だけ読めば、一気に読めるし、逆に丁寧に研究することも可能だ。

本文より

人は教えなければ道を知らない。道を知らなければ、禽獣よりも害がある。(46P)

道は実践があってのものである。日常の中でそれによって行えなければ、道ではない。(66P)

仁が義によって実行でき、義は仁によって成り立つ。(73P)

この言葉は、以下の松陰先生の言葉(「士規七則」より)に似ているが、松陰先生のほうが分かりやすい。
義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。
また、聖教要録の原文では「仁は義に因りて行はれ、義は仁に因りて立つ」となっているから、山鹿流の松陰先生は、この言葉を借りて先の「士規七則」のようにしたのだろう。

そうせざるをえないのを誠と言う。(78P)

以上、聖教要録。これより下は配所残筆。


 紙をまっすぐ切るには、定規を使えば誰でも簡単にできるが、使わなければ難しい。道というのは定規と同じで、人のあり方を誰にでも分かるように、できるように示されたものであるから、難しく考えず、簡単に実行できる。
このような意味のことを言っているが、吉田松陰も「道は即ち高し、美し、約なり、近なり。(人の人たる道は、高く美しく、また簡約で身近なものである)」と講孟箚記で言っている。
 そして、素行は、道という定規を持っていれば、

見ることはよくわかり、聞くことははっきりして、どのようなことが起こっても、それぞれに対する考え方が確固としているから、遭遇する事態を前にくじけることはないのである。これが大丈夫の意地である。(202P)

山鹿素行について

 詳しいことは平泉澄「物語日本史」下巻の山鹿素行の章を読んでください。面倒なのでここでは省きます。
 山鹿素行の主な著書は他に『中朝事実』『山鹿語類』『武教全書』『武教小学』がある。聖教要録は山鹿語類の一部であり、武教小学は武教全書の一部である。現在の感覚では、わざわざ一部を独立させて別の本とするのはおかしいようだが、例えば支那儒教四書五経の一つ、中庸(四書)は、同じく五経礼記の一部を独立させた本だし、四書の一つ「大学」も礼記の一部である。
 武教全書、特に武教小学は武士道の聖典の一つとされるが、私は読んでいない。吉田松陰先生の「武教全書講録」を読んで、よしとしてしまった。武教全書講録は主に武教小学を論じている文章である。また、平泉澄先生の「先哲を仰ぐ」に「武教小学講話」という文章が載っている。その文章には「武教全書講録」も引用されている。
 最後に「中朝事実」だが、これは素行の著作の中でも最も画期的な内容である。詳しくは、読んでいないので不明だが、配所残筆にこれを要約した章があるので、概略を知ることができる。

講談社学術文庫について

 この本も「物語日本史」も、編集者は野間佐和子という人だったので、ちょっと検索してみると、ビックリした。この人、現在の講談社社長。とすれば、講談社の基本スタンスは保守か。それとも、これらは単なる研究対象か。あるいは本当の担当者が別にいたか。
 さて、講談社学術文庫の本で私が読んだものは、主に以下の6冊。上から5冊は実に素晴らしい。
平泉澄「物語日本史」
吉田松陰、古川薫(訳註)「留魂録
吉田松陰、近藤啓吾(訳註)「講孟箚記」
スタンレー・ウォシュバン「乃木大将と日本人」
黒田勝弘、畑好秀「昭和天皇語録」
山本七平比較文化論の試み」


聖教要録・配所残筆 (講談社学術文庫)

聖教要録・配所残筆 (講談社学術文庫)