人権擁護法案マガジン・ブログ版

人権擁護法案マガジンのブログ版です。人権擁護法案反対VIP総司令部まとめサイトはこちら http://zinkenvip.fc2web.com/

小室直樹の「痛快!憲法学」を読む 第12章前編

大日本帝国憲法の死

 明治憲法は最後まで(占領憲法制定まで)立憲君主制を貫き通しました。立憲君主制(君主に拒否権なし)という面に於いては明治憲法は最後まで死ななかったのです。しかし、それはデモクラシーにとって必要条件の一つでしかありません。宗教・思想の自由、言論の自由、国民の政治参加(選挙含む)、という要素が必要です。

日本は第二次大戦中、正当かつ合法的に内閣が二度変わった唯一の主要参戦国であった。(B・A・シロニー「天皇陛下の経済学」135P)

戦時中にも、選挙はありました。政権交代も二度ありました。しかしながら、言論の自由政党政治は消えました。今上陛下も、そのような時代のあったことを忘れてはならぬと強調しておられます。

日本のデモクラシーを殺したのは軍部でもなければ、ましてや憲法ではない。日本人みずからがデモクラシーを殺したのです。(232P)

絶対的な天皇の命令たる帝国憲法、その意味していたところのデモクラシーを、日本人(国民全部)が殺してしまった。これは大逆ではないのか! さらに軍部のやり方が完全な大逆であったことは、平泉澄先生も言っているところです。尊皇を唱える人々が最大の逆臣とは、遂に狂ったか日本。このような異常事態に敢然と立ち向かった政治家たちがいました。彼らこそ真の忠臣であります。二人の政治家について、以前メルマガにて取り上げました。
偉大な政治家たち
http://zinkenvip.fc2web.com/antho.html#004
浜田国松の腹切問答と、斎藤隆夫の反軍演説です。後者は以下のサイトで音声が聞けます。「聖戦の美名に隠れて〜」すごい野次。
http://www.yo.rim.or.jp/~yamma/saitou.html
浜田国松に対して憤激した陸軍は、内閣に圧力をかけ、広田内閣は総辞職してしまいました。しかし、議会も浜田国松もビクともしません。軍部恐るるに足らず。もし軍部が議会を潰して独裁制を敷こうとすれば、逆に議会と国民が軍部をぶっ潰す。と、そこまでの勢いは実際は無かったにせよ、それが理想だと思います。言論の自由で最も大切であるのは、議会内の言論において国会議員は法的責任を負わない、ということ。

大日本帝国憲法 第五十二条 両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ

日本国憲法 第51条 両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。

これがデモクラシーの最後の命綱です。議会から言論の自由が消えた瞬間、デモクラシーも憲法も死ぬ。

明治の藩閥、そして昭和の軍閥は巨大な権力を有していましたが、その力をもってしても議員を処罰できなかった。つまり、日本においても議院内の言論の自由は立派に守られていたわけです。(234P)

しかし、1940年の斎藤隆夫による反軍演説、これに怒った議会は彼を除名してしまいました。

これはまさしく「議会の自殺」です。……権力者からどんなに弾圧を受け、議会が解散させられようとも、その議会はやがて不死鳥のように復活する。議会には、それだけの力がある。しかし、議会みずから死を選んでしまったら、これはどうしようもない。2度と復活はしない。(235P)

ここで天皇陛下のお言葉を載せておきたい。

(右翼のテロが頻発するなど)……議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代があったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう、日本の今後の道を進めていくことを信じています。(平成18年6月)

しかし真の原因は議会にあった。さらに深く考えると「日本教」が原因だと思うが、ともかく「議会の自殺」ほど恐ろしいことはない。次回に続きます。

日本人のための憲法原論

日本人のための憲法原論