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小室直樹の「痛快!憲法学」を読む 第2章

法律とは何なのか

「法とは誰かに対して書かれた強制的な命令である」ということ。「守ってもいいし、守らなくてもいい」なんて法律はない。……さて、そこで問題なのは「誰が誰に命令するか」ということです。……法律の場合は、国家権力です。……では、「誰に」命令をするのか。……いちばん手っ取り早い方法は「その法を違反できるのは誰か」を考えることです。(20P)

例えば民法は、国家権力による日本国民全員に対する命令である。では刑法は?「第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」やっぱり日本国民全員に対する命令でしょうか? よく読んでみると、あっ、違う。「懲役に処する」という述語。これを行うのは容疑者(被告)ではありません。刑法違反とは、刑法の規定より刑が重すぎたり軽すぎたりすること。つまり容疑者に対する命令ではないのです。

正解は、刑法は裁判官を縛るためのものです。(21P)

近代裁判(近代国家の裁判の原理)

被告は有罪が確定するまでは無罪と見なされるというのが近代デモクラシー裁判の鉄則です。(22P)

だが、マスコミも国民も、誰もが、逮捕された時点で犯罪者と決めてかかる。冤罪・無実が証明されても後の祭り。これのどこが民主国家か!近代国家か! 松本サリン事件がいい例だ。逮捕すらされていない人間を犯人扱い。

言うなれば検察=性悪説が近代刑事裁判の大前提。(24P)

どんなに立派な人にだって間違いはある。冤罪は必ずあるのです。

つまり、裁判官というのは、あたかも中立で公平な存在のように思われているけれども、本質的には被告の味方であって、検事の敵なのです。(24P)

しかし日本の裁判官は検事の敵どころか、信用しきっているようだ。

日本の刑事裁判では実際に告訴された事件のうち、有罪判決が下される率はなんと99パーセント以上にも上るというのです。(25P)

強大な行政権力から国民を守るために、刑事訴訟法などがある*1。これに反する捜査などが一つでも行われた場合、自動的に被告は無罪となる。そのため、行政権力はそれらの法を守らねばならない。

これを法律の言葉で「デュー・プロセス」の原則と言います。日本語に訳すと「適法手続き」という意味。(26P)

100人中、100人が「こいつが犯人に間違いない」と思うほど証拠が揃っていても、行政が一つでも不法な捜査などを行っていたら、それだけで被告は無罪。確かに私には「じゃあ被害者やその家族の気持ちはどうなるんだ」という思いはあります。しかし、です。

近代法の思想を一言で言うと、「1000人の罪人を逃すとも、一人の無辜を刑するなかれ」(27P)

一人の無辜を刑したばっかりに、続々と無辜が罰せられ、「一人の罪人を逃さないために千人の無辜を刑す」ことになってしまうかもしれない。日本人は「そんな馬鹿なことあるわけない。明らかに犯人なんだから罰すべきだ」と考えるでしょう。私も同じです。しかし、デモクラシー裁判では「デュー・プロセス」が鉄則なのです。疑わしきは罰せずとは、このことを言います。

憲法は誰に対する命令か

憲法は国民に向けて書かれたものではない。誰のために書かれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。……したがって、憲法に違反することができるのは国家だけ。(29P)

例えば「第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」保障しなければならないのは国民ではなく国家権力。言論の自由を攻撃できる唯一の存在が国家権力。「第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」差別してはならないのは国家権力。特に立法府。「国民は、法の下に平等であつて」差別した法律を作ってはいけない。さて、次回へ続きます。

*1:なお小室博士は、法務大臣が死刑判決確定後、6ヶ月以内に死刑執行しないのは、刑事訴訟法の第475条違反であるとしている。ただし死刑賛成とは言っていない。