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「現人神」「国家神道」という幻想(新田均)

 昨日述べたとおり、国家が神道を保護したのは明治4年ごろまでで、それ以後は保護せず、それでいて宗教的行為を認めなかったため、宗教的にも財政的にも神社は苦しめられました。官国弊社も例外ではなく、保護されたのは伊勢神宮靖国神社だけです。ところで、205Pを参照すると、戦後すぐ、カトリックマッカーサーに「靖国神社は宗教を問わず、全ての戦没者が平等に祭られている。これを廃止することは間違っている」という意味のことを言ったということです。
 さて、昭和16年頃、教科書に「現御神」(あきつ・み・かみ)なる用語が登場しました。そもそもは、浄土真宗の加藤玄智が創作した「現人神」「天皇教」なる語が始まりでした。彼は天皇キリスト教的神と説明しました。「現人神」という言葉を作った上杉慎吉は、民間人であり、政府とは関係ありませんでした。
 国家神道という用語を考えたのも加藤玄智で、彼の説(いや妄言)が英語の著書によってD・C・ホルトムに伝わり、そこから海外に広まっていきました。そう、彼は独自の神道観(それは現実の神道ではなく、彼にとって将来あるべき神道)を英語で語り、積極的に海外に発信したのです。神道指令を作ったGHQのW・K・バンスも、ホルトムの影響を受けていました。
 ちなみに、「人間宣言」は最初、天皇が神の子孫・末裔であることを否定していましたが、侍従や昭和天皇が反対して、「現御神」を否定するものになりました。
 このように、国家神道は単なる妄想の産物であったわけですが、戦争が激しくなると、怪しくなってきます。昭和19年、小磯首相の就任の演説において、天皇は宇宙の創造者のような絶対的神とされました。これは、もう戦争に負けるという現実に対して、適当に出てきた言葉で、「日本教社会学」(小室直樹山本七平)で言うところの実体語と空体語。つまり、現人神は空体語であり、中身がない言葉でした。戦時中は例外と考えたほうがよく、支那事変の時点で「空気」はかなりおかしな方向へ行っていました(戦争をうまくやめることができず、聖戦と称して誤魔化した)。では、支那事変勃発以前はどうであったのでしょうか。大正に入ってから、特に満州事変以降は、多少は問題となることもあったのでした。

 近代の全期間を通じて、俗説がいうように神社参拝が「法的に」国民個人に強制された事実はない。……大正初年から小学校における参拝などをめぐって「神社問題」が発生したが、……上級学校では実施しないとの立場だった。満州事変後に起きた上智大学事件の結果、カトリックが神社参拝を非宗教行為だと認めたことによって問題は急展開し、神社参拝は上級学校にも波及した。……昭和十年代には……宗教団体法の制定に際して、参拝を拒否する宗教団体は認可しないとの方針が打ち出された。(208,209P)

 つまり、神社参拝が問題になったのは学校においてであり、また宗教団体であり、それもそもそもは「神社参拝は宗教的行為ではなく、天皇・皇祖皇宗・国家に貢献した歴史上の偉人を顕彰する行為」となっていたからでした。そしてそれは、神道側にとっても不満の残ることでした。もっとも、多くの国民には関係のない話ではありますし、神社非宗教論は浄土真宗が煽り続け、カトリックも認めたものでした。明治初期の神道政策の混乱が、ことここに至り、いよいよ混乱してきたという状況であり、はっきりいって国家神道と呼ぶべき宗教体系など、影も形もなかったと言えるのです。

 「現人神」にしても、……加藤玄智が唱えはじめたものだった。そして、おそらくそれは、一神教に近い一向専念(阿弥陀一仏崇拝)を信条とし、法主が「生仏」とされ、戦国時代には門徒に対する生殺与奪の権まで握ったことのある真宗の信仰を通して見た天皇像ではなかっただろうか。(238P)

 「真宗の寺院は、植民地の民衆にとって、仏教ではなく皇民化教育機関だった」そうだが、大正七年の時点で、朝鮮における(註:神社の数は寺院より少なく)「仏教の衣をまとって天皇崇拝をさせる装置であった」(242P)

 昭和十年代における真宗関係者の発言……「いふまでもなく、日本の戦争は、それが、天皇陛下の御名によつて進めらるるのであるから正しい。すなわち聖なる戦である。……そしてそれは大乗仏教の精神と一致するものである」(243P)

 「日中戦争が始められ、総動員体制が敷かれると、教団指導層は国家の協力要請を待ちかねてでもいたように、門徒民衆の積極的戦争支持を実現すべく総力をあげて活動を展開した」という。(244P)

 警察が新興宗教を弾圧した理由は、近代科学的合理主義でした。一方、特高が仏教などを弾圧したのは、共産党が壊滅したためにこのままでは特高組織が無くなってしまうため、機能集団であると同時に共同体となっていたであろう特高を存続させるためでした。
 朝鮮における神社強調(?)は昭和10年代に始まり、ほぼ同じくして台湾における神社強調は昭和9年ごろに始まりました。それでも、終戦時に台湾にあった神社の数は、わずかに68社です。朝鮮・台湾でも日本と同じように、神社参拝は最初、学校において半強制となりました。しかし台湾は多神教的な風土のため、拒否する例はあまりなかったといいます。


 実は今になって検索して知ったことですが、新田均氏は「国家神道とは何だったのか」の影響を受けているようです。
http://nittablog.exblog.jp/5795665/

 本書の私にとっての意味は二つある。一つは研究に対する意味である。私が日本の政教関係についての論文を書き始めたのは昭和六十三年のことだが、本書はその前年に出ている。振り返ってみれば、私の研究は、葦津氏が本書の中で提起した図式、解釈、課題にしたがって、それを吟味したり、精密化したり、発展させたりして来たと言っていい。こういう言い方は故人のお気に召さないかもしれないが、葦津珍彦というお釈迦様の掌を飛び回っていた孫悟空のような気がしないでもない。
 「神社非宗教論」に対する浄土真宗の影響。「国家神道」の定義。「宗教弾圧」に対する考え方。大正昭和期の民間思想運動への注目。国家管理された神社神道に対する低い評価と在野の神国思想に対する共感。まぼろしの「国家神道」像を占領軍に諂った御用文化人が広めたとの指摘。(中略)
 本書の私にとっての意味の二つ目は、思想や信仰に関するものである。本書において葦津氏は、国家管理時代の神社神道について、「その精神は、全く空白化してしまった無精神な、世俗合理主義で『無気力にして無能』なものであったというのが歴史の真相に近い」と断言している。それなら、世俗合理主義を脱した神道とは何か。本書と同時期の『神国の民の心』には「神懸りの神の啓示によって、一大事を決するのが古神道だった」「神の意思のままに信じ、その信によって大事を決するのが神道ではないか」とある。 (中略)
 ところで、本書の解題を若い研究者が担当したのは、「葦津先生の志や問題意識を継承し、発展させていく意味においても、あえて葦津先生の生前の姿を知らない若手の研究者たちに依頼する方が良い」との阪本是丸氏の考えによるらしい。「筆者にとって最も大事なことだと思われたのは、自らが『日本人』であり『神道人』であると自任しているのならば、現在にまで微かにも残されている『最後の一線』は何としても死守しなければならない、と言うことである」(藤田氏)。「国家神道が廃止された後の神社神道の将来あるべき姿の追求を、これからの神道人が行うべきことを指し示しているのではないだろうか」(齊藤氏)。彼らの解題の末尾に付されたこの言葉を見るとと、阪本氏の意図は十分の生かされたと言えそうだ。葦津氏の霊がこれからも彼らを導かれることを願って筆を擱く。