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国家神道とは何だったのか(葦津珍彦)

人権擁護法案マガジン第177号(7月7日発行)を加筆、修正。


 明治維新は王政復古であり、神武創業に還り祭政一致を方針としました。政府は神仏分離を行ない、それが民間で廃仏毀釈となりました。そうして国家神道が誕生したかと思いきや。やがて薩摩(親・神道)の藩閥西南の役などで縮小し、長州と浄土真宗(反・神道)の勢力が強くなると、最初の方針は変わっていきました。他にも欧米流の政教分離主義が主流になったことが大きかったでしょう。

 (信教の自由について)伊藤博文は勿論のこと、この条文を不満とした人々も憲法上の「臣民の義務」とは、世俗法的な徴兵、納税、順法の義務等に限るもので精神的良心問題には無関係と解していた。(105P)

 (伊藤博文は)宗教のみならず、倫理哲学等についても精神問題に国家が関与するのは、近代法の思想に反するとした。(106P)

 それは別に構わない、というより正しいと思いますけれど。

 政府の「神社非宗教」というのは、宗教とは異なる別のものでなくてはならないという意味で、伝統的な神主の宗教的活動を制約する必要を示している。ところが衆議院では、「神道精神によって大いに国家精神の高揚につとめねばならない」と主張し、神道は日本精神の骨格であり、一門一宗などの私的宗教とは全く異なって、その上位にあるべきものであるとの論理展開である。(125P)

 真宗政教分離を盾に、神道は宗教ではないと主張しました。この時、神道と国家が分離すればよかったのかもしれません……。

 (内務省が考えるに)神社とは、日本帝国の天皇、皇族または、国家社会に特に功績のあった人格者に対して、伝統的な礼法をもって表敬すべき場所であるということである。(163P)

 植民地官僚は、朝鮮神宮をはじめとして、新領土に神宮神社を建てて皇祖皇宗にたいする表敬の場としようとした。それは西欧列強が植民地で、征服英雄の銅像や記念堂、国王名の記念公園等を作ったのと同一心理だった。葦津は、このような神宮神社が、異民族の宗教的社会意識にいかに深刻な反感を生ずるものであるかを力説して反対した。それは古神道の本義に反するとして、著名な神道人の同感を得たが、世俗的非宗教合理主義の官僚は、頑固にその批判的主張を拒否しつづけた。(166P)

 また政府は「神社は宗教にあらず」と主張し、神社の宗教的活動を禁ずる一方で、代わりの資金を支出せぬので、神社の収入は減る一方でありました。それよりも問題は、伝統的祭事が現在に伝わっていないことです。そう、政府の「神社非宗教」という方針のせいで、今日では多くの伝統的祭事が失われてしまったのです!
 国家が神社、神道を運営する以上、政教分離の原則から言って「神社は宗教にあらず」という必要がありました。その結果多くの弊害が発生したわけで、現在のようなやり方のほうがよいと言えるでしょう。国家による祭事は皇室(この場合特殊な機関と言える)におけるものと、例外として靖国神社などに限ればよいと思います。靖国の英霊は戦死者であり、他宗教における神とは違います。だからこそ世界各国の人が参拝しているのです。そもそも政教分離とは、内心の自由のことです。
 また、混乱の原因として、宗教の定義が曖昧だったことが挙げられます。もし宗教の定義をマックス・ウェーバーの言うようにエトス(行動様式)であるとするならば、神道はエトスであるかもしれないし、古代神道は「日本教」に吸収されて、現在の神道は(多くの国民にとって)宗教ではないといえるかもしれません。あるいは、日本人にとっては葬式をするものが宗教という考え方もあり、仏教(一部ではキリスト教)が宗教ということになるかもしれません。結婚式はキリスト教神道ですが。そもそもキリスト教が入ってくる前は、宗教という概念、言葉が存在せず、日本人は神道・仏法・儒学(道、法、学であることに注意)を全て同時に信仰していたのであります。
 さて、ではGHQが言った「国家神道」とは何だったのか。この本によると、国家危急の時代に在野から台頭してきた神道、尊皇思想だということです。いわゆる「国家神道」については、明日の記事で書きます。

 飯沼一省(神祇院総裁)「日本政府下の神宮神社が宗教だったとは、今になっても私には全く分からない」(198P)

 小室直樹は日本の近代化は天皇教によってなされたと言っていますが、国家神道の本質を見抜いていたからこそ、天皇教という言葉を使ったのでしょう。その天皇教にしても、武士の間で広まり、維新前後に庶民にも広まった、あるいは多少は国家も天皇教を広めたかもしれませんが、それは神道ではなくキリスト教に近いものです。ただし、その成立過程において一切キリスト教の影響は受けていません(と小室博士は言うが、事実、成立は鎖国中の江戸時代である。むしろ儒学の影響を受けているが、支那儒学とは完全に別物となっている)。また、天皇は絶対であっても、神だとはしていなかった。仮に神だとしても、宇宙の創造神、全知全能、とは全く違った。
 もし後に国家も広めた(布教ではない)とすれば、歴史教育を通じて広めたでしょう。しかし、実際に教科書を読んでみると、大東亜戦争の頃を除けば、天皇は神だとは書いてありませんし、幕末の人々が言っていたほど天皇絶対を強調しているわけでもなく、軽めの尊皇思想に留まっています。神話の解釈としては「神話は神話である」「神話は歴史的事実とは異なる」だと思います。そうでなければ、なぜ戦前の日本人が進化論を知っていたのか(拒否しなかったか)。日本列島と大陸がかつては地続きだったという話にしても、神話を事実と考えていたならば、拒否しなければならないはずです。そういう意味では、戦前の日本でもファンダメンタリスト原理主義者)は一人もいなかったと思います。