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物語日本史(平泉澄)を読む 第2回

まだ神話の話にいかない。今日は「国家建設」と「神武天皇」の章だ。なお、次回の神話の引用は、ほとんど内容を省略する。このような引用の仕方は著作権の侵害であるし、もし読みたい人があれば買って読んでほしい。


人権擁護法案マガジン特別号(4月1日発行)より再掲載。修正あり。


物語日本史(平泉澄)の本文。以下のサイトを参考にした。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/english/eng01/eng01frame.htm

01 国家建設

 皆さん! 皆さんは、牛若丸を知っていますか? そうです。五条の橋の上で、武蔵坊弁慶と一騎打の勝負をして、物の見事に之を負かし、一生忠実な家来にしてしまったかの勇敢なる少年です。それでは、その牛若丸と、鵯越の嶮しい絶壁を流れ落しに駆け下りて、一の谷の平家の陣を攻め破った源九郎義経と、両人の関係は、どうですか?これも知っていましたか。そうです。両人は、実は同一人なのです。少年時代には、牛若丸と呼ばれ、大人になって、九郎義経と名乗ったのです。そのけじめは、何時つけられたか、と云いますと、それは元服の時です。元服と云いますのは、今の成人式に当たります。それまでは、児童であり、少年であったものが、この元服の日からは、大人として待遇せられ、同時に大人としての責任を負う様になるのです。(中略)
 形の上での元服は、心の上では立志と云う事になります。いよいよ一人前の大人となれば、心が定まり、目標がハッキリしなければなりません。それを「志を立てる」と云うのです。孔子と云う人を知っていますか。支那の昔の哲人です。キリストよりも、五百年ばかり前に出た人ですが、西洋のキリストや、印度の釈迦と相並んで、ひろく又長く、人々の心に大きな感銘、深い影響を与えた偉大なる哲人です。その孔子の云われた言葉に
 吾、十有五にして楽に志し、三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。
 とあります。十有五は、十五歳です。即ち孔子は、十五歳にして目標を確定し三十歳の時には足の踏み所がしっかりときまって動揺しなかったと云うのですまた皆さんは、
 男児、志を立てて郷関を出づ、
 学若し成らずんば、死すとも還らじ、
 骨を埋む、豈ただ墳墓の地のみならんや、
 人間、到る処、青山あり
 と云う有名な詩の、吟詠せられるを、聞いた事があるでしょう。その志学と云い、立志と云うのは、その人一生の目標がきまり、方向が定まった事、つまり生涯が一定の軌道に乗った事に、外ならないのです。
 さて個人において、形の上では元服、心の上では立志と云う事を理解しておいて、之を民族に移して考えますと、民族全体の立志、或いは元服と云うべきもの、それは即ち国家建設、略して云えば建国であります。日本民族の起原は、遠い遠い昔にさかのぼるでしょう。然しそれは云わばテンデンバラバラであって、そこには意志の統一が無く、共通の責任が無かったでしょう。それが一つの目標の下に団結し、一つの意志によって統一せられ、他の民族に対して責任をもつようになった時、それは即ち国家建設の成しとげられた時でしょう。
 日本民族は、混成民族だと云う人があります。そうではありますまい。無論包容力の強い民族ですから、他の民族を受入れ、之と混合する事は、その例はいろいろありますけれども、その中心となり、主力となっているものは、全く日本独特の性格をもつものであって、その特徴は、混成によって消されていないのです。すぐれたる学者の、骨格及び血液の研究によって、日本民族は世界において独特のものであり、その分布は揚子江下流の地方から、沖縄群島を経て、九州、四国、本州、及びそのまわりの島々に及んでいる事が明らかになってきました。その血液型の研究を見ると、周辺のどの民族をどう混合しても、日本民族にはならないのです。
 日本民族は、その最も本質的なる血液や骨格の上から考えて、独特の民族である事、確かでしょう。然し若しそれが、国家を建設する事が無かったならば、この民族は一体どうなったでしょうか。それは揚子江下流地方の民族を考えれば、ハッキリ分かるでしょう。たとえ血液型において或いはまた骨格の上で、日本民族と同じであるとしたところが、精神的には全く共通するものを見出し得ないでしょう。国家建設によって、民族がその意志を統一せられ、その団結を固くし、一つの高い目標に向かって整然と進んでゆくと云う事が、いかに大切であるか、それを皆さんは分かられたでしょう。繰り返して云う、個人においては立志であり、元服である、民族においてはその立志に当たり、元服に当たるもの、それは国家建設に外ならない。

02 神武天皇

 さてそこで、「日本」と云う国家を建設し、日本民族の中心となって、その団結を固め、その理想をかかげて、その方向を決定した英雄は、一体誰であったか、と云う問題になります。それは神武天皇であります。神武天皇と云いますと、皆さんは、非常に縁遠いお方のように感じるかも知れません。ところが事実は、全く反対なのです。(中略)
 今から百七、八十年前の事ですが、寛政四年に、柴野栗山と云う学者が、神武天皇の御陵(天皇の御墓を御陵と云います)へお参りして、その痛ましい荒れ果てようを見て悲しみ、泣きながら詩を作りました。
 遺陵、わづかに路人に問ひて求む、
 半死の孤松、半畝の丘、
 聖神ありて帝統を開きたまはずんば、
 誰か品庶をして夷流を脱せしめん、
 ・・・・・・・・
 百代の本枝、かず億ならず、
 誰か能く此の処に一たび頭をめぐらす、
 意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何処にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、ようやくの事でお参り出来たが、来て見ると、小さい丘の上に、枯れかかった松が一本立っているだけである。神武天皇日本民族を統一し指導し、そして『日本』と云う国家を建設して下さらなかったならば、日本民族はいつまでもバラバラに分散して、低級な生活から脱出する事が出来なかったであろうから、神武天皇は我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は皆神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千数百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の数は、幾億人と云う多数にのぼっている。即ち神武天皇は我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかえりみる人が無いと云うのは、何と悲しい事では無いか」と云うのです。
 それでは神武天皇何処においでになり、何をなさったのかと云いますと、初めは日向(宮崎県)においでになりましたが、日本国中、いくつにも分かれて相争っているのを御覧になり、之を統一して立派な国家としなければならぬと御決心になり、兵をひきいて船出し給い、(中略)最後に長髄彦と対戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破る事が出来ず官軍は苦戦に陥りました。その時、一天俄にかきくもり、氷雨が降ってきた中に、金色の不思議な鴟(とび)が飛んで来て、天皇の御手に持っておられた弓の弭(弓の先端)にとまりました。その鴟の光、電光の如くに強く輝いたので、賊兵は目がくらんで戦う事が出来なくなった。長髄彦の所には、もとは天皇と同族である饒速日命が来ておられましたが、長髄彦の頑迷であって、どうても教化に応じないのを見て、之を殺して帰順せられました。これが後世の物部氏の先祖で、子孫は長く武を以て国の守護を担当したのです。
 やがて方々の八十梟帥、皆平定したので、天皇橿原宮において御即位式をあげられました。古くはその御徳を讃えて、「畝傍の橿原に、底磐根に宮柱太しき立て、高天原に千木高知りて、はつくに知らす天皇(すめらみこと)」と申し上げましたが、御名は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、後に神武天皇と申し上げる事になったのです。
 話は簡単に、いわば一瀉千里で進みましたが、これは大変な大事業であって容易な苦難では無かったに相違ありません。日本書紀によれば、日向を御出発になってより、大和の平定まで、六年かかったとあり、古事記では、途中の御滞在御準備だけで十五年、従って全体では、十七、八年かかった事になります。国家建設と云う事は、このように重大な、そして苦難の多い大業です。近い例を、アメリカ合衆国にとれば、その独立宣言は、西暦一七七六年でしたが、その後ワシントン(Washington)は随分の苦難に陥り、それを踏み越え踏み越えて、遂に独立の承認をかち得たのが、一七八三年、この間八年かかっています。また支那大陸に建設せられた国家、昔から数多くある中で、最も強力であって、且つ永続したものは漢ですが、その初代の皇帝は、名を劉邦と云いました。その劉邦が兵をあげてから秦を亡ぼすまで足掛け四年かかり、秦が滅びても項羽と云う競争者が出てきたので、その項羽との戦いに足掛け五年かかり、前と合わせて八年の間、非常な苦労をして、遂に皇帝の位につき、漢と云う国家をつくりあげたのでした。殊に項羽と云う人は、「力、山を抜き、気、世を蓋ふ」と、自分で自任していたほどの英雄でしたから、この人との戦いは、容易な事では無かったに違いありません。今、神武天皇が、到る処に割拠している八十梟帥を、或いは討ち滅ぼし、或いは心腹させて、日本民族統一の大業を成しとげられた事は、その大理想に向かって一途に進み、いかなる苦難にも決して二の足を踏まれなかった英邁豪壮の御精神による事として、後世之に感激して、御諡を神武天皇と申し上げる事になったのです。

解説

ここでは省略したが、元服についての説明は心に響く。成人式などとは同日の談ではない。そして「個人においては立志であり、元服である、民族においてはその立志に当たり、元服に当たるもの、それは国家建設に外ならない」ここに目を開くことになる。「戦後教育」を受け、「戦後社会」、「戦後マスコミ」の影響下で育った人間は、日本に建国があったことすら知らない。国家が自然発生したなら、それはそれで起源が古いのだから誇らしいかもしれないが、たとえそうであっても神話があるのだ。自然発生した国家なんて、神話も含めて考えれば、ありえない。アメリカの歴史教育では、ワシントンとリンカーンによる「国家建設」が最重要視されているし、中国なら毛沢東か。ソ連ならレーニンスターリンだったろうし、まあ共産国家を例にあげるのはあれだが、どこの国も独立や建国は大切にしているものだ。神武天皇明治天皇こそ、最も偉大な日本人である。
それから、我々の父母は二人、祖父母は四人いるが、曽祖父母は八人、その上は十六人、というふうに遡ると人数は二倍、二倍に増えていき、遂には数億人に達する。実際にそんなたくさんの人がいたわけではないが、基本的に日本人はみな親戚同士であり、皇室も例外ではない。神武天皇は皇族のご先祖であるのみならず、日本人全体のご先祖であるのだ。ここでは省略したが、その説明が結構詳しく書かれている。しかし残念ながら、私の名字は出てこなかった。