人権擁護法案マガジン・ブログ版

人権擁護法案マガジンのブログ版です。人権擁護法案反対VIP総司令部まとめサイトはこちら http://zinkenvip.fc2web.com/

物語日本史(平泉澄)を読む 第1回

春にあけて先づみる書も天地のはじめの時と読み出づるかな 橘曙覧
【通釈】あら玉の年の初めになつて、最初にひもとく書物は、『天地のはじめの時―』と書きおこしてゐる古事記で、元旦の読書始めはこれにまさるよい書物はない。
以上、愛国百人一首通釈より。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/waka/aikoku.html


愛国百人一首の編集には、平泉澄先生も関わっていた。その平泉博士の著書を以って、天地のはじめの時と読み出づることにしよう。今日から数回にわたって「物語日本史」の本文を紹介していくが、この本は序文の次にまず神武天皇がきて、その後に神話が載っているので、読み出しは「天地の初発の時」ではない。まあ細かいことはいいとしよう。今日は序文の紹介で終わる。読み始めは「人生は短く、芸術は長しといい……」だが、私はこの序文が本当に好きだ。この本のことも、真実愛している。今後、これ以上の本に出会うことがあるだろうか。ある日、2ちゃんねるのある小さなスレで、この本を偶然知ったのだった。人権擁護法案を知った時、まだ読み終えていなかったが、この本を読んでいたことが、法案反対の意志に繋がったのだった。もし読んでいなければ、無気力な自分にとってこういう政治的な話題はどうでもよかったのだ。よって、私がこの本をここで紹介することは、避けて通れない。小室直樹博士の推薦の書でもあるが、私が小室博士を知ったのは、この本を読んだ後であり、全くの偶然である。

序文

人権擁護法案マガジン第101号(10月27日発行)より再掲載。修正あり。


物語日本史(平泉澄)の序文。以下のサイトを参考にした。
http://ha9.seikyou.ne.jp/home/Osamu.Kunimoto/heisenji.htm


 人生は短く、芸術は長しといい、また彪(ひょう)は死して皮を留め、人は死して名を残すといいます。しかるにその芸術功業の長く伝わり、名声栄誉の万世に不朽なるは、その精神功業の、子孫後世に理解せられ継承せられるがためであって、もし子孫にしてこれを理解せず、後世にしてこれを継承することがないならば、すべてはその人と共に消滅してしまい、人生はすべて一瞬の泡沫、死と共に雲散霧消するでありましょう。古来、家に庭訓を厳しくし、国に教育を重んずるは、そのためであって、教育の要諦は実にここに存するのであります。
 しかるに明治以来、西洋文明の輸入追随を急務としたために、本義はしばらくこれを不問に附するもやむを得ずとしたうえに、昭和二十年以降は、占領政策のために抑圧せられて、父祖の精神を継承し、その功業を顕彰することは不可能となりました。その痛ましい傷痕を、私は当時の可憐なる小学生に見ました。
 終戦の二、三年後でありました。山奥の小さな村の秋祭りのために、私は下駄をはいて山道を登ってゆきました。日の光はさんさんとして山々を照らし、暑からず寒からず、楽しい眺めでありましたが、足が少々疲れてきて、学校帰りの児童三、四人に追付かれました。児童はいかにも楽しそうに歌を歌いながら登って釆ました。いつしか気やすく友達になった私は、ふと尋ねてみました。
君が代、知っているかい。」
君が代? そんなもの、聞いたことない。」
「日本という国、知っているかい。」
「日本? そんなもの、聞いたこと無いなあ。」
「それではアメリカという国、知っているかい。」
アメリカ? それは聞いたことあるなあ。」
 私は憤然として恐れました。世界には、征服せられ絶滅せしめられて、その民族の運命も、その文明の様相も、明らかでないものが、いくつもあるが、それが今は他人事ではなくなったのだ、と痛歎しました。
 昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二、三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。
 成和中学の感動の忘れがたさに、それより十数年後の昭和四十五年、時事通信社より一貫せる日本歴史を書くよう求められた時、純真なる少年に呼び掛ける形を取りました。当時すでに七十六歳の私は、余命計り知るべからず、これを児孫への最後の贈り物、つまり遺書として書こうとし、したがって学者らしく事実を羅列して博学を誇るがごとき形式を好まず、ただ歴史の精粋を抜いて、誠実に父祖の辛苦と功業とを子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待しつつ、しみじみと誠実に語ろうとして筆を執ったのでありました。(中略)願わくはこの小さき贈り物を満載せる帆船の行手、風穏やかにして波静かなれ。
 昭和五十三年十二月十日朝   白山寒林の中にて   平泉 澄

少年日本史の序文

物語日本史として文庫本になる以前の、少年日本史(平泉澄)の序文。以下のサイトを参考にした。
http://www.oyagaku.ecnet.jp/aksin-2.html


 (略)皆さんは日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、その言葉、それはみな幾百年前からの先祖より受け継いだものだ。それを正しく受け継いだ者が、正しい日本人だ。従って、正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、これを受け継がねばならぬ。然るに、不幸にして、戦い敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解除せられた。しかし歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。従って皆さんが、この少年日本史を読まれる時、それが一般に行われている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう。
 皆さんよ、人の貴いのは、それが誠実であるからだ。誠実は一切の徳の根本だ。その誠実を守るためには、非常な勇気を必要とするのだ。世の中には、自分の欲のために、事実を正しく見ることの出来ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事実を述べる勇気のない人も多い。今後の日本を担うべき少年の皆さん、敗戦の汚辱を拭い去って、光に充ちた日本の再興にあたるべき皆さんは、何よりもまず誠実でなければならぬ。そしてその誠実を一生守り通す勇気を持たなければならぬ。日本の歴史は、さような誠実と勇気の結晶だ。およそ不誠実なるもの、卑怯なるものは、歴史の組立てに与る事は出来ない。それは非歴史的なるもの、人体で言えば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覚をいだいてはならぬ。
 私は今、数え年七十六歳だ。従って本書は、皆さんへの、最初の贈物であって、同時に最後の贈物となるであろう。私は戦いで疲れきった心身に、ようやく残る全力をあげて、一気にこれを書いた。(中略)
 昭和四十五年秋九月   平泉 澄