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櫻井女史「歴史授業軽視教育の欠陥構造」

櫻井よしこ女史ブログ 高校の必修科目“未履修・改竄”発覚で露呈した歴史授業軽視教育の欠陥構造
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2006/11/post_479.html


 ……教育問題の根は深い。今回の未履修問題にもいくつもの側面がある。その第一が、未履修科目が世界史に集中していたことだ。学習指導要領は、高校の地理歴史教科で世界史を必修科目とし、地理と日本史を選択科目としている。歴史をこれほど軽視する国がほかにあるだろうか。
 日本の義務教育における歴史の位置づけの低さに気づいてほしい。まず、歴史が単独の科目でなく、社会科の一部となって久しいことだ。子どもたちは小学六年生になって初めて歴史を学ぶ。それもわずか68時限、一時限は45分である。駆け足どころか疾走速度で教えなければならない。そのため、歴史をおもしろくするさまざまな物語は、およそすべて省かれていく。子どもたちに教えられる歴史は、骨組みも内容もスカスカなのだ。そんな授業に子どもたちが引きつけられるはずがない。こうして歴史嫌いになった小中学生が、高校に入るとどうなるか。
 基本を欠いている生徒は、初めから歴史への興味を失っている。高校は彼らの歴史離れを決定的にするだけだ。進学率を上げるために、受験に役立つ科目に集中する結果として、歴史を不要科目として切り捨てるからだ。
 ……歴史を知らないことの不幸は、個々の生徒にとっても日本全体にとっても計り知れない。そもそも必修科目が世界史で、日本史が選択科目であることが異常だ。日本史を知らない子どもたちに世界史を、それも教科書で見る限り、一貫した歴史の流れを教えるというより、世界の国々の主な出来事を、さしたる意味もなく羅列しているような世界史を教えてなんになるのか。
 歴史を教える際に中心になるべきは自国の歴史である。その展開に関連づけて他国の歴史を教えるのが、本来の教え方だ。自国の歴史を教えない教育は、生徒に己を見詰めさせることなく、自分が何者であるかを認識させずに育てるに等しい。日本の教育が、日本人の育成につながっていないのだ。
 ……そして急いで言っておきたい。まじめに世界史を履修した生徒たちは、履修せずに、受験勉強に専念した生徒たちに比べ、受験で不利になったなどと考えないでほしいと。なぜなら、1998年、世界史の授業が置き去りにされていたことが発覚し、その後世界史授業が徹底された広島県では、国公立大への現役合格者数は、問題発覚前の1.5倍に増えた。学ぶ人こそ強いのだということを知っていてほしい。


(VIPまとめより)
見出しを見て、「歴史授業軽視と言うが、世界史をちゃんと履修しても、あるいは世界史の代わりに日本史を必修にしても、結局は歴史知らずの人間が大量生産されるだけだ」と反論したくなったが、本文を読むと同じことが書いてある。
歴史が民族の精神を伝える唯一のものであることは、言うまでもない。学問的に言っても、歴史は全てに優先されるべきだ。例えば平和の維持にしても、戦争回避は歴史を知らねば不可能なことだ。
先日ご紹介した平泉澄博士の「先哲を仰ぐ」の第一の論文は、「一の精神を欠く」というタイトルである。たった4ページだが、教育とはかくあるべきという理想がまとまっている。現在の学校教育は歴史を軽んじ、その歴史教育も単なる事実の羅列(年表の暗記)と文化の説明に終始していると批判している。だが、彼の言う現在とは、それが書かれた昭和三年なのである。「一の精神」とは、歴史を貫く一つの精神のことであり、アメリカにおいてはデモクラシー、支那においては中華思想、どこの国にも宗教と伝統に基づくものがあるはずなのだ。
素晴らしい歴史教育のためには、よい教科書とよい教師の両方が必要となる。吉田松陰先生に平泉澄博士の「物語日本史」を使って授業させたら、おそらく現在の日本で最も理想的な授業となるだろう。しかし、そのような授業は受験という怪獣がいる限り、実現されないような気がする。